BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

沈黙と会話

私は一切を与えた。そしてあなたの一切を再び取り戻すことはわたしの意志である1

三鷹の修道院に1泊2日の黙想会に参加した。

その内容をここでは詳しく書かないが、三度の食事は栄養満点で美味しく、お代わり自由だったので、太ったような気がする。また、酒、煙草はもとより、コーヒー、紅茶などのカフェインも駄目だったので、神経がリセットされた感じがする。まさにデトックスである。修道院に行き、私は健康になって帰ってきた。

黙想会に参加して、分かったことがある。私は沈黙よりも会話が好きだ、という事実である。私のような凡夫でも、1日に1回、3~5秒間の黙想をする。時にはエレベーターの中でする。もう少し長くてもいいし、頻度も増やした方がいいのかもしれないと思うが、これだけでも生活は改まる。今の私はこれで十分ではないだろうか。

白状すると、研修期間中、私は本ばかり読んでいた。私はまだ勉強できる、読書をする体力があるんだ、と自信が着いた位だ。トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』はその中の一冊だ。修道院ではパソコン、スマートフォンを使うことは許されなかったので、万年筆でメモを取った。勉強法としてこれも良かった。

「我思うゆえに我存在する」。黙想会で乗り越えようとしたのは、このようなデカルト的な人間観だったと思うが、黙想を通じて、私が会得したのは「我話すゆえに我存在する」という人間観ではなかったか。それは畢竟「我書くゆえに我存在する」という人生観に至るのだ。

ということで、私は牧師にならない(なれない)と思うが、今何がしたいと訊かれれば、小説を読みたい、書きたい。そして、酒を飲みながら、聖書を語りたい、と答えるだろう。私は小説家/伝道師を目指すべきである。


  1. トマス・ア・ケンピス(池谷敏雄/訳)『キリストにならいて』 新教出版社、1955。