昨日、港区芝の聖アンデレ教会で堅信を終えた。
堅信とはキリスト教で、受洗(洗礼を受ける)のあとに行われる、信仰を確認する儀式のことだ。
私の所属する聖公会では、洗礼は司祭によって、水(と油)を用いて行われるが、堅信は主教によって、精霊(神の息吹)を通じて行われる。
神学上いろいろと細かい所があるが、要するに、自身のキリスト者としての思いを新たにした上で、神と人が「お前、頑張れよ」と励ましてくれるのである。
ようやく、聖公会のキリスト者として一人前になることができた。人生の後半のスタート地点に立った。
キリスト者になると善いことがある。教会の看板を背負っているから、怪しい所、いかがわしい所に出入りしなくなる(苦笑)。
それは半分冗談として(そういう所にまったく足を運ばないのは、宗教家としては詰まらないし、キリストの教えに反する)、それでも、生活に緊張感が生れる。これが凄く大事だし、善いことなんだ。
かつて政治学を学んだ私はいろいろな思想、イデオロギーにかぶれた。民主主義、社会主義、自由主義、浪漫主義、資本主義、マルクス主義……。そのどれもがしっくりこなかった(先に挙げた中で、もっとも自分に近しい立場は浪漫主義だが)。
その中で、キリスト教が最も私に響いた。選んだのではない。迫ってきたのだ。キリスト教は私の思想・身体に適っていた。キリスト者になることは必然的な要求だったのだ。キリスト者とは何か? キリストに倣いて、人々を救う者である。キリスト者はキリストを生きるのだ。
私はすでに三十半ばを過ぎた。こうした気持で己の後半生を全うしたい。——そして、言葉は成就する。