活動家 アリョーシャ

悲しみのうちに幸せを求めよ。

——ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

私がまだ大学院に居た頃のことである。ゼミで『カラマーゾフの兄弟』が話題になった。その時、先生はぽつんと言った。「続篇では、アリョーシャは皇帝を暗殺するかもしれない、という説があるね。兼子くんはこれからどうなるのか。楽しみにしているよ」

私がこの頃、聖公会の教会に通っていることを大学時代の友達に告げると、彼は次のように言った。「君はアリョーシャになりたいのか?」

『カラマーゾフの兄弟』を再読しているが、学生時代には読み飛ばしていた所にことごとくぶつかるようになった。気づかなかった所に気づくようになった。分からなかった所が分かるようになった。この10年の間に私の経験と思想が深化したのだろう。

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の末弟 アリョーシャを「活動家」として定義している。意外なことに修道士ではない。これはアリョーシャが世に出て、そこで働き、そこに生きる人々と交じわることを意味する。

活動家は本質的に現実主義者リアリストである。アリョーシャもまた現実主義者である。ドストエフスキーは真のキリスト者は真の現実主義者と見ていた。キリスト教徒はとかく理想主義者イデアリストに見られがちだが、彼にしてみれば、それは違うのである。ロシアの修行者は大地に接吻し、天上を仰ぎ見る。

アリョーシャに思想ないし理想はあるのだろうか。答えは然りである。作中、ミウーソフが公安刑事の次のような談話を紹介している。「われわれは実際のところ、アナーキストだの、無神論者だの、革命家だのという、あんな社会主義者たちをさほど恐れておらんのです。あの連中の動きは監視していますし、手口も知れていますからね。しかし、連中の中に、ごく少数ではあるものの、何人か特別なのがいるんです。それは神を信ずるキリスト教徒でありながら、同時に社会主義者でもあるという連中なんですよ。この連中をわれわれは恐れているんです。これは恐るべき人々ですよ! キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしいものです」

キリスト教社会主義者。これがアリョーシャの将来の姿である。また作者ドストエフスキーその人の姿である。彼は若き日の社会主義の理想と、シベリア流刑後のキリスト教の信仰を堅く守り続けた。政治と宗教——彼の中でこの二つは分かちがたく結びついていた。ここにドストエフスキーという作家の創作の動機モチーフがある。

最初の質問に戻ろう。私はアリョーシャになりたいのか? 答えは然りアーメン。ゾシマ長老のアリョーシャへのはなむけの言葉に私は涙した。

お前のいるべき場所はここではないのだよ。これを肝に銘じておきなさい。私が神さまに召されたら、すぐに修道院を出るのだ。すっかり出てしまうのだよ。どうした? お前のいるべき場所は、当分ここにはないのだ。俗世での大きな修業のために、私が祝福してあげよう。お前はこれからまだ、たくさんの遍歴を重ねねばならぬ。〔…〕お前にはキリストがついておる。キリストをお守りするのだ。そうすればお前も守ってもらえるのだからの。お前は大きな悲しみを見ることだろうが、その悲しみの中で幸せになれるだろう。悲しみのうちに幸せを求めよ——これが私の遺言だ。