2017年春、私は朝日新聞出版1で派遣社員として働いていた。昼下がり、私が書籍の用紙を発注していると、ビジネス編集部の齋藤太郎さんが話しかけてきた。
「昨日、山田さんと寿町2に行ってきた。居酒屋で豚足を食べたあと、ドヤに泊まったんだよね。今度、崇志くんも行ってみないか?」
齋藤さんはもともと出版界隈に居た人ではない。バーテンダーから身を起こした編集者だ。当時、副編集長を務めていて、敏腕を通り越して、天才と呼ばれていた。「山田さん」とはノンフィクション作家の山田清機3氏のことである。当時、朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』で『寿町のひとびと』を連載していた。齋藤さんは山田氏の取材に同行したのだろう。
著者でも編集者でもなく、出版社の一隅で書籍と雑誌の用紙を選択したり、発注したりしている一介の派遣社員の私が、堂々たるノンフィクション作家の取材に同行するのは甚だ不自然なことであり、齋藤さんもそれを重々承知しているが、その気がないと言えば嘘になった。
齋藤さんは編集者として私の資質を見抜いていた。私の才能はフィクションよりもノンフィクションにあり、齋藤さんはそのために私を山田氏に引き合わせたいと本気で思っていたのだ。結局、この粋な計らいは実現しなかったが、その後の私の人生は齋藤さんの思惑どおりに進んだ。私は精神を病み、善良で快活な市民の規範を踏み外した。出版業界を去り、職業訓練を経て、特別養護老人ホームの介護職として働き始めた。
2022年、介護福祉士の資格を取得したことを機に、私は個人事業主のライターの仕事を始めた。いわゆるフリーライターである。私は出版業界に復帰するべく書くネタを探し始めた。
ちょうどその頃のことである。立教大学の同窓生が浪岡新太郎先生を囲む、ささやかな飲み会を企画した。私はそこで、先生が寿町に足を運び、調査し、様々な活動をしている事実を知った。編集者の齋藤太郎さんに寿町のことを教えられてから、足かけ5年。私は偶然とも必然ともつかない不思議な符合を感じた。『寿町のひとびと』の「あとがき」には次のような一節がある。
寿町のひとびとの取材を重ねていくにつれて、私はこの町に対する意識が徐々に変わっていくのを感じた。入り口は、単なる怖い物見たさに過ぎなかったかもしれない。しかし、取材を始めて1年が過ぎた頃から、自分はどちら側の人間なのかを問われている感覚が強くなった。お前はいったいあちら側(=ドヤの住人側)の人間なのか、それともこちら側(=寿町の外側)の人間なのかと……4。
学生の頃、私は政治学という学問を学んでいた。なかでも政治理論(思想)に強く惹かれ、国家(政府)の政治家と官僚ではなく、社会に住む市井の人々が政治の担い手であり、民主主義の深化を促すという、市民社会論に共感と信頼を置いていた。しかし、このような私の感情は大学を卒業し、実社会で働くことで、深刻な疑念に曝されることになる。
私は出版社以外に、新聞販売店、老人ホームなど、様々な業界を転々として働いてきたが、そこでは私の見るかぎり、市民の名称を享くべき人々はほとんど存在しなかった。彼/彼女等の多くは教養(学歴)がなく、貧乏であり、粗野だった。日曜祝日、昼夜問わず働かされ、デモはもちろん、選挙に行く暇もなかった。そこでは資本家と労働者の差異は明確に存在し、貧しい人ほど階級の障壁に無自覚だった。そこでは政治は禁忌タブーだった。今思えば、唯一、市民らしい人々が居たのは出版社で、編集者の多くは大卒、大学院卒であり、教養と財産があり、政治的関心も強かった。彼等と働くと私は居心地の良さを感じると同時に或る息苦しさを感じた。彼等は上品であるが臆病であった。金持であるが吝嗇だった。寛容であるが酷薄であった。そもそも、私は学生の頃から市民を忌避していたのではなかったか。
齋藤太郎さん、浪岡新太郎先生に続いて、私もドヤ街に行くべき時が来たように思えた。東京の東端 小岩に住む私は、山谷がもっとも身近な取材の現場であった。私のドヤ街を巡る旅は、こちら側とあちら側、市民と賤民の区別を問い糺す契機であった。山谷の基督は私に思索によらず経験によって、再び思想を作り上げる試練を与えているように見えた。
1 山谷の兄弟
山谷は台東区の北端、荒川区の南端に跨る、いわゆる奥浅草と呼ばれる地域に存在する。江戸の頃、参勤交代で栄えた宿場町である。戦前は長屋と木賃宿が蝟集する貧民窟として、戦後は日雇労働者が多く集まるドヤ街として生長を遂げた。遊里として有名な吉原はその西隣にある。1966年の東京都の住所改正により、山谷と吉原は公式の地図から消えたが、その後も人々はその地を山谷と言い慣わしてきた。吉原は今でも色街として存在するように、山谷もドヤ街として確かに存在している5。
南千住駅を降りて、旧日光街道の山谷通りを約15分南に歩くと、明治通りにぶつかる。山谷の入口として名高い、泪橋交差点がある。ドヤ街として有名な山谷に来たけれど、駆け出しのライターの私には取材のアテもツテもない。とりあえず、Googleで検索すると、付近にカトリックの教会があることが分かった。宗派は違えど、私は聖公会の信徒だったので、同じキリスト教徒のよしみで何か教えてくれるのではないか、という安易な期待でそこを訪ねた。コンクリートで打ちっぱなしの白と青で塗装された建物の入口は「山谷の家」と書かれている。玄関にはセダンが一台停まっており、その周りを褐色のアジア人と見られる男性が歩いていた。日本語が通じなかったので、私は不慣れな英語で会話を試みた。
“Hello. I’m christian and freelance writer. This is catholic church?”
“Oh, I’m a brother. Come in.”
セダンが停まっていた正面玄関ではなく、路地裏に面している勝手口に案内された。今度は日本語を話す男性が現れた。齢七十位だろうか。角刈りで、エプロンをしていて、忙しそうにしていた。私がライターであり、聖公会の信徒であり、山谷を取材していることを告げた。その人は少し早口で話した。
「そうですか。ぜひ中に入って話を聞いてください」
会堂に入ると、正面の壁に吊るされた全長2m位の巨大なキリストの十字架が目に入った。部屋の中央には簡素なパイプ椅子と長テーブルが置かれている。吹きさらしで、少々日本離れした、エキゾチックな印象を受けた。私を案内してくれた男性の他にもう一人、日本語を話す男性が現れた。
「広瀬です。聖公会の方とお聞きしましたが」
「そうです。兼子と申します。立教学院諸聖徒礼拝堂の信徒です。フリーライターをしています。今日、初めて山谷を取材しに来たのですが、右も左も分からなくて……。教会を尋ねれば、何か教えてくれると思ったんです」
「ここは教会じゃない。修道院だよ。神の愛の宣教者会6の男子修道院なんだ」
広瀬さんは長髪の天然パーマをしていて、年齢は還暦を過ぎた位だろうか。Tシャツとブルージーンズというラフな格好に、青いエプロンを掛けている。日焼けした肌が外で働いている人を思させた。鋭い目と厳しい顔をしている。
「神の愛の宣教者会はマザー・テレサ7が創設した修道会でね。この建物も彼女のパーソナル・カラーの白と青を基調にしているんだ」
確かに会堂を見渡すと、壁には教皇 フランシスコの写真や、マザー・テレサの写真と絵が飾られていた。他にも、棚にはイエス・キリストの聖像など、様々なイコンが飾られている。私の属する聖公会の文化とは明らかに違うことに、私は密かに動揺していた。
「ここで修道士達は互いに兄弟と呼んでいます。最初にあなたが外でお会いしたのは、ブラザー・アニイル。インド人です。戸口からあなたをここまで案内した日本人は兄弟ブラザー高木。山谷の家の修道士は主に、日本人、韓国人、インド人、フィリピン人、カンボジア人で構成されています。皆、独身です。ただし、高木さんは妻帯者だけど、特別修道士として認められています」
その時、誰かが勝手口を開けるのが見えた。来客だ。高木さんが対応している。「まだ五目御飯が残っているよ」と広瀬さんが言うと、高木さんはお弁当をひとつ、客に手渡した。
「炊き出しをしているんですね。入口の掲示板で読みました。毎週土曜日にカレーライスを作っていらっしゃる、と」
「ええ。土曜日には隅田川左岸の白髭橋でカレーライスを配っています。でも、土曜日以外にも、たとえば今日のような平日でも、朝8時半に修道院の前で炊き出しをしています」
「炊き出しはいつ頃から始めたのですか?」
「この修道院は1978年に設立されました。40年以上、山谷の人々に炊き出しをしていることになります。受け取りに来る人は、生活保護の人が三分の二、ホームレスの人が三分の一です。『もっとも貧しい人の間で働く』私達はマザーの教えを忠実に守っているのです」
「次に来た時に、その炊き出しを取材させてくれませんか」
「いいですよ。土曜日はボランティアが多く集まりますから、その日に来てください。斉木さんという聖公会の方も見えます。紹介しますよ」
「ありがとうございます。兄弟ブラザーに主の平和がありますように」
私はカトリックの習慣に従い、三本の指を合わせて十字を切った。
2 吉原の姉妹
山谷の飲食店は驚くべきほど少ない。ドヤ街と聞くと盛り場を連想しそうだが、それがほとんどないのである。街に人影と活力がない。人々が集まる場所が本当に少ないのである。街そのものの機能が喪失しているのではないかと思われる。山谷日雇労働組合の山崎さんは、山谷の労働者をめぐる状況を次のように話した。
「オイルショックと、それに次ぐバブル崩壊のあと、山谷の建築業の仕事は急激に減っていきました。1日に1件、2件あるかないか程度です。今、山谷の労働者のほとんどは、東京都の就労対策事業に頼っています。仕事の内容は主に公園と墓地の清掃です。1日に150件くらいです。それも日によって、季節によって変動します」
山谷は貧しい街である。投資と消費、そして人口の減少にその原因を帰することができるが、それだけに尽きるのではない。山谷の住民、すなわちドヤとマンションに棲む人々の孤立した生活様式にその遠因があるのではないか。——山谷は寂しい街である。
夕方、取材を終えると、私はその足で、立ち飲み屋 みづの家に向かった。
山谷は旧日光街道を境に東と西に分かれている。東側は清川、西側は日本堤である。みづの家は日本堤の日の出会商店街にあり、その道を西にまっすぐ行くと、吉原大門にぶつかる。往年の大門は関東大震災で消失し、以来、再建されず、今は殺伐とした交差点に過ぎないが、正門を越えて中に入ると、明らかに異界に踏み込んだことに気づく。山谷は男の街だが、吉原は女の街である。そこに棲む人々、行き交う人々の欲望の性質が明らかに異なる。かのマルクスは資本主義社会すなわち市民社会では、人々の間に物神崇拝が現象すると指摘した。その対象は金にとどまらない。山谷の場合は飯と酒である。吉原の場合は性である。それぞれの崇拝の対象がその街に棲む人々のあいだで事業として展開され、取引される。慈善とて例外ではない。——そんな取り留めのないことを考えながら、私はみづの家のコの字型のカウンターに凭れ掛かっていた。
今、私の正面に二人の女がいる。一人は帳場を切り盛りする女将さん。齢六十位だろうか。簡単な飲み物は作るが、基本的には接客と勘定に専念している。みづの家は注文の都度支払いをする先払方式なので、酒場を上手く回せるかはひとえに彼女の采配にかかっている。
一方、カウンターの奥の厨房に一人、お姉さんが控えている。齢は五十位。従業員には違いないが、女将の家族あるいは親族かもしれない。厨房の一隅で、モツ煮、刺身などを料理している。基本的に女将以外の人とは喋らない。口数が少ないという訳ではなく、そういう役目なのだろう。
私はホッピーとガツの刺身を頼んだ。私は本来、ビール党なのだが、ドヤ街の大衆酒場の一角に佇んでいる、という情況に合わせて、あえてホッピーを選択した。観光客の心理である。ガツの刺身を選んだことについては、確かにホルモンは好きではあるが、もともと食に頓着しない質なのだ。
私の右手に男がいる。青い作業着を着た、七十はとうに過ぎたと見られる老人である。背は曲がり、歯はほとんどない。黒縁の分厚い眼鏡が印象的である。すでに何杯も飲んでいるらしくできあがっていた。「兄ちゃん、……なあ」としきりに話しかけてくるが、前後の脈絡がないので、何を言っているのかは分からない。酔漢として有名らしく、女将をはじめ、他の客にも小馬鹿にされていた。ただし、客には違いないので、それなりの礼節は保っている。
私の左手に男がいる。還暦を過ぎたくらいだろうか、少し肥っているが、偉丈夫で堂々としている。焼酎をロックで飲んでいる。「ここら辺に住んで長いんですか?」という私の愚問に対して、嫌な顔ひとつせず、丁寧に答えてくれた。仕事でいろいろな所を渡り歩いているようで、私の住んでいる小岩にも通じていた。酒場で飲む、ハシゴ酒をするのが趣味のようだ。私も彼と同じ芋焼酎を頼んだ。「兄ちゃん、大きいな。いい体格しているな」という言葉に対し、私は「ハハハ、今どきの人ですから。メシがいいんですよ」と剽軽に返した。
右の男が便所に行き、帰ってきた。すると、私の横で声がした。
「男の人って、トイレに行ったあと、手を洗わないで***するのよ。それで痛い目に遭うのはいつも女なんだから。出直してきなさい、って言っているの」
突然なんてことを言うんだ。左隣を向くと、女が立っていた。
「私、朱実っていうの。吉原で熟女専門のソープ嬢をしているの。ねえ、ママ、この子にもう一杯注いでちょうだい」
私には熟女の定義は分からないが、おそらく四十代後半くらいだ。身長は約150cm。アウター・キャミソールにジーンズという、かなりラフな格好をしている。年増に違いないが、小柄な体型のために若く見える。
「今日、会社を休んじゃった。私たち吉原の女達の面倒を見てくれる優しいお姉さんがいてね。みんな慕っていた。でも、脳溢血で病院に運ばれて、昨日亡くなった。あっという間だったわ。悲しくて一晩中泣きあかした。だから、こんなに目が腫れているの。おかげですっぴんで来てしまったわ」
朱実は私に、亡くなった姉御の逸話を聞かせた。涙は枯れ果てたようだった。「本日は献杯ですね」私は彼女とグラスを合わせた。私は駆け出しのライターであり、山谷を取材していること。そして、実は収入のほとんどは介護で稼いでいることを明らかにした。彼女は吉原で泡姫をする前は、クラブのオーナー、その前は看護師をしていたと話した。「崇志くんは話を聞いてくれて優しいね」取材に来ているから当然でしょう、と思ったが、それは伏せておいた。「あなた、相当飲める身体をしている。看護師の私が言うから間違いないわ」私達は南千住で飲み直すことにした。
旧日光街道を南千住に向かって歩き、泪橋交差点を過ぎた歩道橋の近くにスナック 花園がある。「ライターをやっていることをママに話しちゃ駄目だからね」店に入る前に朱実に念を押された。「ここのママは一見****みたいな格好をしているけど、本当は優しいのよ」
店に入ると、カウンターに客が一人居て、ホステスと差し向かいで話していた。「ママはまだ来ていないみたいね」朱実は少し残念そうに言った。私達はテーブル席に案内された。私は朱実の隣に坐った。私はウイスキーのストレートを、朱実はチューハイを頼んだ。「私達も一緒に飲んでいいですか」ホステスが二人付いた。私は彼等にソーダ割の同じような酒を呉れた。
朱実はポシェットから煙草を取り出した。PARLIAMENTの1mgで、水商売の女性が愛煙している銘柄だ。おそらく前職の名残りだろう。吉原の風俗にも似たような風習があるのかもしれない。私は鞄からPeaceを取り出して火を着けた。二人のホステスも喫煙者で、アイコスの機器デバイスを弄り回していた。「昼はどんな仕事をしているの?」私がホステスに対し、当たり障りのない話をしていると、朱実が不意に私の耳元で囁いた。「あのカウンターの男も福祉の人8だからね。給金のほとんどを呑んでしまうの。ここら辺はそういう男ばかりだわ」
小1時間は過ぎたろうか。その時、店の扉がおもむろに開いた。ママである。ピンクのドレスを身に纏い、巨大な金の巻髪を頭の上に載せている。雨が降っているらしく、傘を丁寧に畳んで傘立てに置いた。近くに居るホステスと二言三言話すと、ママはカウンターに入り、先の客の相手を始めた。
「あの頭は鬘なのかな?」私は不躾な質問を朱実に訊いた。「分からない。でも、ママが善い人なのは確かだわ」
やがて、カウンターの男の姿は消え、客は私達二人だけになった。「お腹が空いたわ。ママが握るおにぎりはね、本当に美味しいんだから」酒に飽いた朱実はおにぎりを注文した。ママはカウンターに立つと、掌にラップを拡げて御飯にネタを仕込みながら、少しぎこちなく、おにぎりを握っていく。皿に盛り付けると、ママは私達のテーブルに運んで言った。「お待たせしました。私が花園のママをしています。一緒に乾杯してもいいかしら?」
酔いが回るにつれて、夜が深くなっていく。ママが言った。「タクシーを呼んだ方がいいわね」
10分後にタクシーが到着すると、ママは「お腹が空いた時に食べてね」と、私と朱実にラップに包んだおにぎりを手渡した。「あと、傘も忘れずに持っていきなさい」私達はタクシーの後部座席に乗り込むと、彼女の住む夜の浅草に向かった。
3 パンと群衆
山谷の家の広瀬さんは「土曜日の炊き出しに来るように」と言ったが、私は時々ドヤに泊まって、この街の取材をすることがあるので、平日、修道院を訪れる機会があった。平日の炊き出しは午前8時30分に始まる。私は15分前に来て、その様子を伺っていた。
長蛇の列である。その行列は修道院を越えて、隣の城北労働・福祉センター9にまで拡がっていた。周辺の一角には山谷日雇労働組合がブースを出して、労働相談に応じていた。また、組合員がビラを配っていた。山谷の家の炊き出しは、この街に住む人々にとって衆知の事実なのだ。
私は炊き出しに並ぶ人々を見た。案外、小ぎれいな格好をしている人が多い。ホームレスの人は少ないようだ。「弁当を受け取りに来る人は、生活保護の人が三分の二、ホームレスの人は三分の一」という広瀬さんの言葉を思い出した。私はこの光景を記録に焼き付けるために携帯電話を取り出し、何枚か撮った。すると、年齢は五十代くらいだろうか。大柄で小太りの男が近づいてきた。
「撮っちゃいけないんだよ! お前、その写真をSNSにアップするんだろう?」
「しませんよ。私はライターです。そんな目的には使いません。それに顔を写さないようにしています」
「それでも撮っちゃ駄目なんだよ。ここに並んでいる人々は可哀そうな人々なんだよ」
衆人が私を見ている。これ以上トラブルを起こさないために、私は携帯電話を鞄に収めた。
「それでいいんだ」男は私のもとから去り、炊き出しに並ぶ人と再び談笑し始めた。組合の人だろうか。あまり活発な組織ではないが、それでも悪い印象を与えると今後の仕事がやりにくくなる。私は組合を取材の対象から外すことを決めた。
その時、行列が動き始めた。山谷の家の扉が開き、修道士たちがビニールに入ったパンを配っていく。今はコロナ禍である。口元が露わな人にはマスクも配っていた。炊き出しに並ぶ人々は、概ね謝して受け取るというよりは、むしろ事務的にさも当たり前のように受け取っていた。
行列は開錠10分後くらいに消えた。山谷の家に入ると、まだ修道士たちがバゲッドを包丁で切っていた。これからこの家を訪れる人のために用意しているのだろう。「このパンはここで焼いているのですか?」私は韓国人の修道士に訊いた。「いえ、パン屋で余ったものを譲り受けているんです」修道士がそっけなく答えた。
修道院を出ると、まだ周囲に人がちらほら居た。隣の城北労働・福祉センターの石段に坐って、パンを食べている人もいる。その中でひと際目立ったのは、長髪でプロレスラーのような体格をした男だった。まだ四十代くらいだろうか。「ウオオオオッ!」と雄たけびを上げたかと思うと、「ゲットー!」と拳を握り締める動作をした。その不穏な喧騒に耐えきれなくなったのか、一人の男が「俺、警察にいってくる」と駆け出した。よくよく見ると、みづの家で私の右手に居た、眼鏡を掛けた老人である。5分後、さっき私を難詰した男ににこやかに連れ戻された。
私は手帳とペンを取り出し、この光景を素早く書き留めた。
キリストのパンに群れたる人々よ飽ければやがて散りにけるかも
群衆はパンを貰うと、やがて消えた。
4 ちんねんのマザー
土曜日、午前8時。私は再び山谷の家を訪れた。聖堂にはすでに数人の修道士とボランティアが集まり、すでに炊き出しの準備を始めていた。私は入口の水道で手を洗い、何か手伝うことはないか訊いた。
「まずはジャガイモの皮を向いてほしいな」彼は私に皮むき器を手渡して言った。「僕、道向って言うんだ。よろしく」
道向さんは齢五十くらいで長身の笑顔の多い好人物である。英語に堪能な彼は、日本語に不慣れな韓国人、インド人の兄弟とのコミュニケーションに臆することがない。どのような経緯、動機で修道院にボランティアに来ているのか不明だが、物事に拘らず、さばさばと仕事をこなしている所を見ると、案外、無宗教の実務家なのかもしれない。
私はバケツからジャガイモを1個取り出し、その皮を剥き始めた。
私はふだん料理はしない。最初は力加減が分からなくて、ジャガイモの皮が上手く剥けなかったが、それでも道向さんの手の動きを見つつ、2個、3個と数をこなすうちに、なんとか料理の材料として使える代物になった。「ジャガイモの皮が剥き終わったら、次はニンジンをお願いね」
根菜の皮を剥く私達の隣では、それを包丁でひたすら刻む人達がいる。剥き身のジャガイモが一杯入ったバケツを受け取った初老の眼鏡を掛けた男は言った。「私は伊藤と言います。え、立教出身なんですか? それじゃあ、私の後輩じゃないですか」
学生の頃、伊藤さんには信仰がなかったが、カトリックの奥さんと結婚したことを契機に、同宗に入信したらしい。けっして己を高ぶることのない、物腰の低い方である。
すべての野菜と肉を刻んで、鍋に放り込み、煮込んでいる間、火の番をしている者以外は小休止の時間だ。それぞれにお茶とお茶菓子が配られ、歓談する人もいれば、沈黙する人もいる。ちょうどその時、広瀬さんが私を呼んだ。「兼子さん、聖公会の斉木さんが来たよ」
斉木さんは丸刈りの頭に太縁眼鏡を掛けた、少し小太りの四十過ぎくらいの人である。私は立教大学のチャペルに通っており、洗礼はまだ受けていないが、聖公会の信徒であると告げた。「僕は芝の聖アンデレ教会に通っています。ちんねんと呼んでください」確かに坊主のような風貌をしている。くたびれたマスクの隙間から、歯が何本か欠けているのが分かった。私は彼に詳しく話を聴くことに決めた。
「僕はもともと仏教に帰依していたんです」斉木さんは過去を回顧した。「僕は少年の頃、ボーイスカウトをしていました。社会貢献にはもともと興味があったんです。それが仏教に近づくきっかけでした。でも、お寺の会計が杜撰で、そのいざこざに巻き込まれてしまったんです。お金が絡むと人は変わりますね。その時、醜い姿をいっぱい見てきました。それが仏教を離れるきっかけになったんです」そうか、もともと篤信家だったのか。この世には宗教に関心のある人が一定数存在する。そういう人は少なからず遁世の傾向があり、現身は事業に手を染めていても、実は世捨人の心裡に通じているのだ。
「その後、放蕩の日々を送りました。女の子の店で一日何十万円も使う日もありました。そんな生活を何年も続けていたら病気になったのです」病気——彼はそれについて詳しく語らなかったが、おそらく精神の病だろう。私は分裂病ないし統合失調症と見た。世間の一般的な感覚とずれている。彼の総体的な雰囲気が私にそう思わせた。
「私も躁鬱病を患っているからお気持は分かりますよ。それに私も盛り場が好きでしてね。たまに女の子の店に行くのですが、金が絡むと修羅の形相を見せる時がありますよ」斉木さんは相槌を打った。「ああ、修羅を見せる瞬間がありますね。まさに悪魔ですよ」けれども、私は自説を譲らなかった。「いや、悪魔ではなく、やはり、修羅だと思いますよ」そして、私は斉木さんに白状した。「私は立教大学チャペルの会衆ですし、意識はすでにキリスト教徒なのですけど、まだ洗礼を受けていないんです。出来れば今年中に受洗したいと思うのですが」斉木さんは「そうでしたか」と言うと、私の頭に掌を載せて、次の文句を唱えた。「洗礼・堅信準備中の兼子さんに主の豊かな恩恵がありますように。父と子と精霊の御名においてお願い致します。アーメン」沈黙の後、私は顔を上げて言った。「キリストは教えました。貧しい人、病んでいる人、迫害されている人こそが、真理を見出し、神の国に入ることができる、と。この逆説がキリスト者の矜持なのです」
その後、私達は弁当箱にカレーライスを盛りつける作業にかかった。透明のプラスチックの使い捨てのタッパーに、ライスとルーを盛り付けていく。この工程には聖心女子大学の卒業生が手伝いに来てくれたお蔭で助かった。まさしく人海戦術である。盛り付けの終わった弁当は輪ゴムで留め、使い捨てのスプーンを添えて、衣装ケースに納める。そして、それを広瀬さんのワゴンの荷台に詰めて、ひとまず炊き出しの準備は終了である。作業台として使った長机を拭き、床を掃き清めると、私達は一堂に会した。
広瀬さんが会衆の前に立ち、諸般の連絡事項を告げた。その中で特筆すべきものがある。
山谷の家に駐車場はない。そのため広瀬さんはやむなく、自身の自動車を修道院の門前に停めているのだが、先日、近隣住民によって、路上駐車として警察に通報されたというのだ。「私達の活動が山谷のすべての人々に支持されている訳ではない」広瀬さんは苦々しげに話した。私はこの事件を山谷の市民社会と基督社会の矛盾対立として見る。
皇帝を戴く市民社会の構成原理は力である。それは究極的には生殺与奪の権力が行使される社会である。また、それは資本制によって、畢竟、金の力によって増幅されている。
一方、基督を待ち望む基督社会の構成原理は愛である。それは人々を抑圧と悲惨、そして、悲哀から救うための恩寵が、すべての民族、すべての階級に普行き亘る社会である。市民社会において高き者は基督社会において低くされ、市民社会において低き者は基督社会において高くされる。価値の転倒がここでは行われる。市民社会は基督によって克服されるのだ。
以上はどこまでも理念的な考察だが、山谷の市民が修道院の車両を路上駐車の罪で警察に訴えることは、山谷の市民社会と基督社会が宥和することなく、矛盾対立していることを現す象徴的な事件であった。
広瀬さんの報告が終わると、私達は一円になって、聖母マリアを讃える祈りを始めた。
「おお、マリアよ。あなたはキリストが苦しみに遭われた時も、最期まで付き従ってくださいました」聖母マリアを崇拝することは、アングリカンとプロテスタントでは見られない。カトリックとオーソドックスに見られる独特の文化である。私は聖母マリアへの信心はないが、キリストがユダヤの祭司らに捕らわれた時、男性の使徒たちは一目散に逃げ出したのに対して、聖母マリアを含む女性たちはキリストに付き従い、その死を看取った事実に興味がある。男はみずからの力と功に頼ることが多いが、女性はその危険に陥ることが少ないのである。女性は愛の象徴である。「アーメン」
高齢の人、足の不自由な人は自動車に便乗して、私たち若き等は徒歩で白髭橋の袂まで歩いた。途上、私はちんねんに取材を試みた。
「どうして、聖公会の信徒なのに、カトリックの修道院の炊き出しの手伝いに来ているのですか?」
「放蕩のかぎりを尽くして、ぼろぼろになった時に、聖公会が僕を拾ってくれたんです。その道程には神様の導きがあったと思います。だけど、少年の頃からボランティアを通じて、マザー10には関心がありました。マザーは修道院の活動を通じて、多くの奇蹟を演じたのです。彼女に倣いたい、少しでも近づきたいと思って、神の愛の宣教者会に通うようになりました」
奇蹟と言われても、当時の私にはいまいちピンとこなかったので、ただ相槌を打つばかりである。
「ネコちゃん11、教会に居るからといって、皆が聖者だと思ってはいけませんよ。むしろ、罪人の社会です。洗礼を受けたあと、ネコちゃんは今までよりも更に多くの人間の美しさ、醜さを目の当たりにすることになるでしょう。それに打ちひしがれて、キリスト教徒を辞めてはいけませんよ」
道中、斉木さんは思い出したように、私にキリスト者としての心構えを教えてくれた。
そうして、私たち一行は白髭橋に着いた。
自動車はすでに到着し、弁当を配布する準備を進めていたが、その前にすでにそれを待ち望む行列が出来ていた。土曜日の11時にここで炊き出しをやることを皆知っているのだ。行列には生活保護の人もいれば、ホームレスの人もいるようだった。山谷日雇労働組合の組合員がここでもビラを配っていた。よく目を凝らして見ると、行列の先頭の方に、みづの家で飲んでいた眼鏡の老人がいるではないか。人々は炊き出しに集まる。案外、山谷は顔見知りの狭い社会なのかもしれない。
定刻になったので、私達は弁当の配布を始めた。時間厳守は炊き出しの鉄則である。ともすれば騒動ないし暴動に発展するかもしれない、現場の混乱を避けるためである。私達は人々に弁当を手渡す側と、衣装ケースから弁当を取り出す側に分かれた。私は弁当を渡す方に回った。
炊き出しに並ぶ人々の顔が嫌でも目に入る。感謝して受け取る人々がいる一方で、さも当然の顔をして受け取る人々がいる。私はどちらの人々に対しても、「ありがとうございます」と言って、弁当を手渡した。偽善と言われれば、それまでかもしれないが、正しい行為をしている、私達の傲慢を糺すにはこの方法しかなかった。山谷の人々を前に、私は愧じていた。
炊き出しに並ぶ行列が終わったあとも、私達は隅田川左岸を弁当を配って歩いた。「カレーライスはまだありますよ!」これが好みに合わない人のために、ふりかけ御飯も用意していた。「パンもあるよ!」という斉木さんの声も聞こえる。そうしているうちに、私はある人物に出会った。
山谷には大倉屋というけんちん汁の専門店がある。1杯270円。私は二日酔で失われた塩分を補給するために、また、日頃の野菜不足を解消するために立ち寄ることが多い。その日、私は店頭でけんちん汁と、店主に恵んで貰った鮭おにぎりに舌鼓を打っていた。すると、私の後に一人の男性客が来た。
「プーチンの戦争、どう思うんだ?」私がライターであることを告げると、その人はけんちん汁を啜りながら言った。年齢は七十、身長は170cm位。体格はがっしりしていて、肌は浅黒い。彫は深く、器量の良い顔をしている。沖縄の出身で、かつて建設労働者をしていたらしい。「俺、ドヤに住んでる」その人にはひどい吃音があった。彼の名前は聞かなかったので、仮にMさんと呼ぶ。
今、Mさんは生活保護を受けながら、山谷のドヤに住んでいる。だが、今後は正式にアパートに転居するらしい。私は彼に間取りの写真を見せて貰った。1Kで、家賃は56,000円である。台東区の相場だとこれくらいか、と思ったが「高いですね」と率直に申し上げた。それでも、Mさんはドヤを抜け出して、賃貸とはいえ、ようやく自分の部屋を持てることが嬉しそうだった。Mさんは微笑を絶やさぬ人であるが、ほとんどの歯が抜け落ちていた。
私は今、隅田川の河岸でMさんと再会している。彼が私のことを覚えているかは定かではないが、「あれから、アパートに引っ越しましたか?」と訊いた。「うん、引っ越した」と、彼はカレーライスを食べながら、手短に答えた。炊き出しに並ぶために、彼は歩いてここまで来たのだ。私は弁当をもう一つ彼に手渡した。
すべての弁当が掃けたので、修道院に戻ると、私は皆と一緒にカレーライスを食べた。私はお代わりをした。
5 浅草のヨハネ
「道向さん、今日は私も自転車で弁当を配達したいんですけど」山谷の家の炊き出しは二つの班に分かれている。片方は先日、私が行ったように弁当を自動車で運んで、集合場所である白髭橋の袂に並ぶ人達に配布し、他方は弁当を自転車に積んで、公園、路上などに住む人々に個別に配達するのである。炊き出しが必要なのに、その場所に行くことができない人々、支援を必要としているのに、それを享受できない人々、彼等に手を差し伸べることを福祉の用語でアウトリーチと言う。私は所定の場所で単に弁当を配るよりも、自転車で個々の人を訪問する方が働き甲斐があると思った。私は新しい経験を必要としていた。
修道院の相当年季が入った自転車の前と後ろのカゴに弁当、菓子、麦茶、マスクを積んで行く。食事が肝心だが、それと等しく水分も大切である。季節はすでに初夏になっていた。
ペダルを漕ぐたびにガタピシ言う自転車に乗って、山谷(東浅草)を駆けて行く。私達の存在はこの街の景色に完全に溶け込み、今日失われた下町の情景を映し出す。山谷堤と呼ばれる、江戸時代に浅草と吉原を繋ぐ水路の跡地に着くと、私達は兄弟を認めた。
「カレーライスのお弁当はいかがですか?」自転車を停めて、ベンチに坐る彼に声をかけた。
「ありがとう。一つ貰います」その人は夏なのに饐えた臭いがしなかった。話を聞くと、生活保護を受給しながら、近所のアパートに寝泊りしているらしい。しかし、昼間は自宅ではなく、この暑熱にもかかわらず屋外で過ごしている。
「暑くなってきたので、麦茶も飲んでくださいね」道向さんが言った。「あと、兼子さん。マスクも渡して」彼の日に焼けた肌を見て、私は習慣の強さを感じた。
私達は再び自転車に跨ると、今度は浅草の隅田公園を目指した。
そこには公園で起居している人々がいた。公園に住んでいるので、彼等は路上生活者ではない。また、ホームレスという呼び名も正しくない気がする。なぜなら、公園が彼等のホームの役割を果たしているかもしれないからだ。ここでは暫定的に野外生活者と表すことにする。
浅草の隅田公園は、山谷の玉姫公園ほどの密度ではないが、野外生活者が各地で点々と生活を営んでいる場所である。私達はXさんとYさんを訪ねた。彼等は公園でテントを張りながら、空き缶の回収をして生計を立てていた。彼等は公園で野宿をしながらも、堂々たる生業がある。思わず我が身を省みた。
「暑いですね。冷たい麦茶があります。飲んでください」道向さんがXさんに麦茶の差し入れをする。私も弁当を手渡した。Yさんは木立にハンモックを吊るして寝ているが、私達の存在に気づいて、にわかに目を覚ましたようだ。Xさんはノースリーブの肌着姿で、Yさんは上半身裸で過ごしている。日焼けした褐色の肌をしていた。笑顔が多い。彼等は公園の一隅で自活し、自足している。彼等のホームはここにあるように見えた。
「暑いので気をつけてください」と言い残すと、私達は再び南に向かって自転車を駆った。
次に会ったのは、笑顔と口数が極端に少ない男だった。人の親切を拒む、頑なな顔をしている。ドヤの住人か、それとも公園の住人か見分けがつかなかったけれども、日焼けした肌に、コーデュロイの開襟シャツを着ている。私はその恰好に市民的な折り目正しさを見た。
私達が弁当その他一式を差し出すと、その人は「母ちゃんの分もください」と言った。「母ちゃん」が文字どおりその人の母なのか、それとも妻なのかは判らなかったが、道向さんは二つ目の弁当を差し出すのを拒否した。「皆さんには手渡しでお願いしているんですよ」私はその言葉に、炊き出しは誰に対しても、無差別に、無条件に配るのではない、という事実を改めて知った。貴重な資源と労力を配分するためには規則が必要なのだ。
結局、道向さんは河岸のベンチに坐る「母ちゃん」にも弁当を手渡した。その人が男の母なのか妻なのか、そのような詮索は最早不要だった。私は男の人間不信に少し傷つき、その場をあとにした。
私達は吾妻橋の袂まで来た。そこは水上バスの船着場があり、その近辺には浅草寺やアサヒビールの本社が立ち並ぶ、観光客の往来が絶えない場所である。その賑わいの中に在って、私達はこの一見華やかな世界都市の路上で生活せざるを得ない人々に弁当を配っていた。その中で、ひときわ記憶に残っている人がいる。
その日、サチエさんは橋の袂に坐り込んでいた。大量の荷物が入ったビニール袋を抱えているが、そのほとんどは衣類である。その風貌から異臭がするかと思われたが、意外に無臭だった。私は弁当と菓子を手渡した。サチエさんは感謝して受け取っていた。彼女はこの筋では有名な人らしく、私たち以外の何人かのボランティアが話しかけていた。私は彼女にもう一つ余分に弁当を差し上げた。彼女は地面にへたり込むように坐っていたので、私は最初、歩けないと思っていたが、道向さんに訊くと、そうではないらしい。
「彼女は自分の家があるけど、そこには帰らないんだよ。こうして大量の荷物を抱えて、各地を点々としているのさ」
その事実を知った時、私は『聖書』の一節を思い出した。聖書記者ヨハネによると、イエスは弟子に次のように語った。「わが誠命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ」ただし、次のように付言するのを忘れなかった。「世もし汝らを憎まば、汝等より先に我を憎みたることを知れ。汝等もし世のものならば、世は己がものを愛するならん。汝らは世のものならず、我なんぢらを世より選びたり。この故に世は汝らを憎む12」
私は彼女に加えられた世人の侮辱と虐待を想起した。それは私の身にも覚えがある経験だった。それに気づいた時、私は自身の運命とその最期を理解した。
「弁当はもう無くなりましたね。山谷に戻りましょう」
道向さんに促されると、私は積荷の無い自転車に乗って、もと来た道を引き返した。
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- 旧朝日新聞出版局。2008年に朝日新聞社の完全子会社になった。
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- 神奈川県横浜市中区寿町。山谷、釜ヶ崎とならぶドヤ街として有名。「ドヤ」とは「ヤド」を転倒させた言葉。
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- 1963年生。早稲田大学政治経済学部卒。新日本製鐵、徳間書店を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』、『東京湾岸畸人伝』(文庫化に際して『不器用な人生』に改題)、『寿町のひとびと』など。
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- 山田清機『寿町のひとびと』(朝日新聞出版、2020年)363-364頁。
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- 佐野陽子/江原晴郎『奥浅草:地図から消えた吉原と山谷』(サノックス、2018年)。
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- 神の愛の宣教者会 Missionaries of Charity。マザー・テレサによって、1950年に設立されたカトリックの修道会。「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。その活動はインドのコルカタに始まり、その後145以上の国に広まった。
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- マザー・テレサ Mother Teresa, 1910-1997。本名はアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ Agnesa/Antigona Gongea Boiagi。マケドニア生。富裕なカトリック教徒の家に育つ。ロレト修道女会に入り、コルカタで教育と宣教をおこなったが、「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受け、1950年に神の愛の宣教者会を設立する。ホスピス 死を待つ人々の家を開設し、以後、老人介護、児童養護など様々な活動を実践する。1979年、ノーベル平和賞受賞。2016年、カトリック教会により列聖。
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- 生活保護の受給者の隠語。
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- 公益財団法人。職業の紹介、無料の検診などを行っている。
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- マザー・テレサのこと。
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- 筆者のこと。
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- 「ヨハネ傳福音書」文語訳『舊新約聖書』15:12-19。
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