一見キリスト教を拒絶しているような態度に見えても、根底においてはむしろ真の意味で「信仰的」だといえる場合もありうる。逆に、一見キリスト教信仰があるかのようなポーズをとっていても、根底においてはむしろ「非信仰的」な場合も十分にありうる1。
日本のキリスト教史を解説した、一見、軽い読み物かと思ったが、終盤の「信仰とは何か」と執拗に問う著者の真摯な態度に魅せられた。
少し私事の話をしたい。
黙想会に参加した後、少し落ち込んでいる。私には信仰が無いのではないか、不信心なのではないか、と思うようになったからである。前にも書いたが、私は黙想が得意ではない。毎朝3秒くらいはするが、これくらいで十分ではないかと思っている。長くても1分くらいである。本質は時間ではないと思う。訓練をすれば、純粋直観(観照)に大して時間はかからないだろう。そもそも私は黙る以上に読むこと、話すこと、書くことが大好きである。ウイスキーをイッパイ飲みながら、聖書の話をしたいがためにキリスト教徒をやっているようなものである。
話を『キリスト教と日本人』に戻そう。本書は著者が教会のご婦人に「あなたには信仰がない」と非難されたことがきっかけで書かれた。信仰は何か特定の対象を信じることを意味するのだろうか。信仰と懐疑はどのような関係にあるのだろうか。著者の石川氏はキリスト教徒をしていれば、当たり前に出てくる問題に正面から向き合っている。
ちなみに私は洗礼を受けた後でも、トーマス・マンの次の言に信頼を寄せている。信仰にはおそらく善意が含まれているのだろう。
私はあまり信仰を持っておりませんが、信仰というものをもあまり信じていないのです。むしろ、信仰がなくても存立し、まさしく懐疑の所産でありうる善意の方をはるかに信じているのであります2。