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聖餐式ミサの後、足早に教会を立ち去ろうとする私の肩を、神学生の染谷さんが掴んで言った。

「ちょっと、ちょっと。兼子さん、行かないでくださいよ。最近、どうです?」

「すみません、市川聖マリヤ教会にはお世話になっていますけど、やっぱり、私、洗礼、堅信は立教大学で受けたいと思っているんです……。それはともかく、この頃は山谷のカトリックの修道院の炊き出しを手伝っているんですよ。ジャガイモの皮を剥いたり、玉ねぎを刻んでいます」

「浅草の聖公会の教会も炊き出しをしていますよ。ぜひ、訪ねてみてください」

「そうなんですか。浅草、山谷はやっぱり面白い街ですよ。炊き出しなどの活動に、宗教、宗派を超えていろいろな人々が参加するんです」

「私も横浜の寿町に行ったことがありますから、その光景はよく分かります」

「山谷の炊き出しの最中には、カトリック式のお祈りもしています。やはり、あちらの方々は聖母マリアを崇拝しているのですね。キリストの像もよくお見受けします。聖公会、アングリカンの簡素なスタイルと違うので、ちょっと驚いています」

「カトリックは聖者の像もよく作りますね。聖像に関して言えば、アングリカンはプロテスタントの影響を受けていますから」

「そういえば、山谷のホスピス きぼうのいえの理事長は、聖公会の牧師と聞いたのですが」

「下条先生ですね。東京タワーのすぐ近くにある、聖アンデレ教会の牧師をされています。きぼうのいえの取材をされたければ、一度、訪ねてみるといいと思います」

その後、市川聖マリヤ教会をあとにした私は、自転車にまたがり、小岩の自宅に向かったが、帰路、驟雨はしりあめに見舞われた。そのために、昨日、銀座の教文館で購入した、舊新約聖書の本文が水濡れしてしまったが、こんなことは信仰生活の道程に当然起こることだ、とむしろ誇らしく思い直すことにした。それにしても、山谷の炊き出しに参加していると、いろいろな情報が耳に入ってくるし、そこで際会する人々は皆親切である。これだからキリスト教徒はやめられない!

今、政治と宗教の関係が云々言われているし、これを機に政治から宗教を完全に放逐して、真に世俗な国家と社会を作ろうと、声高に主張している哲学者、政治学者もいるが、私にはまったく浅薄な意見に思われてならない。

私は人間として、よく食べ、よく飲み、よく交わる。肉体を備えたまったくの俗人であると同時に、精神を備えたまったくの聖人でもある。両者は時に矛盾することもあるが、それが人間的な魅力を作っていることは否めない。国家はともかく、私は社会にも、人間と同じように聖と俗の二面性を持ってほしい。快活と慈愛に満ちた社会は、そのようにして作られるのではないだろうか。