と、書くと語義矛盾になるかもしれないが、昨日、日本基督教団 江戸川教会の主日礼拝(集会)に参列してきた。まず、感謝したいのは、日本のキリスト教は他教派の信徒に対して、極めて寛容である、ということである。アメリカやヨーロッパならこうはいかない。現在の状況は違うのかもしれないが、キリスト教会といえども、教派、人種、階級で分断されているのが普通である。しかし、それでも交流、一致しようとする働きがあるからこそ、この宗教は尊いのかもしれない。
ミサ、それも他教派のそれについて詳しくは書かないが、会衆席は満席に近く、地元に根付いている教会という感じがした。聖書は持参したが、さすがに基督教団の聖歌(賛美歌集)は持っていないので、拝借して当日歌った。面白いことに、カトリックの流れを汲むアングリカンよりも、プロテスタントの式文、賛美歌の方が文語が多いということだ。普段、文語訳 聖書を読んでいる私にとって、これは苦ではないが、「主の祈り」「ニケヤ信条」は口語で覚えているので、これらを文語で唱えるのは新鮮だった。
他にはキリストの御血が葡萄酒ではなく、葡萄ジュースであったり、「キリエ」などのシャントを歌わないなど、いろいろあるが、ここでは詳しく書かない。ただ、キリスト教徒として十字を切るのは嬉しい行為だし、私達には神の印が刻まれているという事実を想い起こすためには必要だと思う(キリストの身体、すなわち教会共同体の構成員であることの証しでもある)。それと、秘蹟の重要性である。私は信徒として、主日のミサ、また人生の重大局面において、司祭に祝福してほしいのだ。聖餐に与ることも大事だが、私は聖なる働きを通じて、人々に神の恩寵が降り注ぐという事実を重く見たいと思う。
そんなことをつらつら書いてしまったが、私はまた最寄りの江戸川教会に行きたいし、今後も他教会、他教派の礼拝(集会)に積極的に参加したいと思う。しかし、私の住む小岩はキリスト教を初めとした宗教激戦区なのに、聖公会の教会がないのが悲しく、悔しい。