点と線

紀田順一郎『東京の下層社会』。山谷のルポの下調べのために読んだが、あまり役に立たなかった。本書のタイトルは、横山源之助『日本の下層社会』のオマージュだが、横山氏のそれに比べればオリジナリティがない、ただの感想文である。私がここで言うオリジナリティとは、個性ないし独創性のような要求の高い、難しいものではない。要するに、作者の立ち位置のことである。

紀田氏は本書で、東京の下層社会を取材した松原岩五郎や永井荷風を紹介しているが、あくまで事実の羅列にとどまっており、肝心の作者の紀田氏の立場が見えない。思想、と言ってもいいかもしれないが、肩肘の張らない、着流しの評論にそこまで高尚なものは必要なく、やはり、立場と言った方がいいかもしれない。しかし「君/己はどの立場で物を言っているんだ」と訊かれると、一寸、怖ろしい気分になる。やはり、評論/批評という行為は政治的な意味をともなうのかもしれない。

評論に限らず、何か物を書くときには、自身の立場、思想、理論を明らかにするように書くべきである。事実の羅列は面白くない。それは週刊誌の醜聞ゴシップに任せて置けばいい。文章を読み進めるにつれて、作者の意志、意図、さらに欲を言えば、作者の思想を理解する時、私達読者は事実という複数の点が線として繋がった喜びを感じるのだ。それはバラバラの認識が統合される瞬間である。ヘーゲル流に解釈すれば、文学における個々の不条理な事実は作者の理性によって生起し、最後に一個の作品として止揚される。

とまれ、紀田氏は書誌学に通じ、博覧であると聞く。そのことがかえって彼の批評を事実の羅列に留まらせたのかもしれないが、さすれば思想を育むためにはたくさんの知識は不要、むしろ有害なのかもしれない。人は枕頭の書さえあれば、作家として一人立ちすることができるのだ。