散文家

今朝、花みずき短歌会の野倉さんの電話で目が覚めた。私が長らく(約3年)休会しているので、このまま休会を続けるか、それとも退会するか、真意を問うものだった。

「近頃、短歌を書いていないので、退会します」

すでに決意を固めていたとはいえ、自分の口から淀みなく発せられた言葉に、私は少々気圧された。

「そうですか。あんなに頑張っていらしたのに……。残念です」

互いの苦労と感謝の気持ちを表して、電話を切った。

私は短歌を嫌いになった訳ではない。短歌を通じた歌人同士の交流と理解を今でも大切に思うし、彼らとの吟行会は私の大切な思い出である。しかし、私が近頃、短歌を書いていないという事実が、決定的に私を彼らから遠ざけてしまった。その一因は、私は韻文家(詩人)ではなく、散文家(小説家)という自覚である。今の私は、小説、評論、評伝、ルポルタージュを読み、書くことしか眼中にない。私は短歌と疎遠になってしまったのである。

しかし、文人俳句、文人短歌、と言うように、小説家が「余技」として、俳句、短歌に手を染めることは往々にしてあることだ。古くには、夏目漱石芥川龍之介など(久保田万太郎は小説を書くが、やはり、俳句が本業だろう)、最近では、丸谷才一森村誠一石田衣良だろう。小説を生業にし、世間に小説家として認知されても、短歌を書いてはいけない法はないのだ。

しかし、私が出版業界に復帰するためには、絶対に小説を、評論を、ルポルタージュを書かなければならない。息の長い散文を書くためには、幾度も孤独な夜に耐えなければならない。

しばらく、短歌はお預けのようだ。