今、目の前に小道具がある。「コンパニオン」と呼ばれる、パイプの煙草を押し付けたり、掻き出したり、パイプに付着した
単に「チェコ共和国製」の意味なのだが、500円位の廉価で買えるのに、一本三役をこなしてくれるスグレモノなのだ。構造はシンプルなのに、格子状の文様が彫られていて(アールヌーヴォーとも異なる)、東ヨーロッパのエキゾチックな雰囲気がこの調度品から感じられる。末永く愛用したい逸品である。
そろそろ話題を文学に転じたい。管見ではあるが、チェコに生まれて、その後、世界文学を創造した作家として、私は次の人々を想起する。
- ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875 - 1926)
- フランツ・カフカ(Franz Kafka、1883 - 1924)
- ミラン・クンデラ(Milan Kundera、1929 -)
先日、ミラン・クンデラの小説『ほんとうの私』を読了した。原題は"L'Identité".英語の"identity"と同義であり、翻訳に難しい言葉であるが、動詞の"identify"は「本当の私を認める」ことだ。「自己認識」くらいの訳が適当ではないか。
本書の主人公の一人、ジャン=マルクは学生の頃、医者になるのを断念したあと、スキー・インストラクター、雑誌記者、インテリア・デザイナーなど、さまざまな職業を転々とする。彼は失業を怖れない。職業に拘らないからだ。一見、気ままなパリジャンの暮らしを謳歌しているように見える。
一方、彼の年上の恋人 シャンタルは、結婚を機にリセの教師を辞め、不幸にして一子を失ったあと、離婚して、広告代理店のプロデューサーに転身した。キャリア・ウーマンである。彼女はジャン=マルクと異なり、自身の職業を重視する。神聖視する、と言ってもいい位である。職業と
結局、二人の恋人は離別して、シャンタルはさらなる自由と商機を求めて、社用でロンドンに渡ることになる。一方、ジャン=マルクは彼女のアパートから追い出されて、パリの公園で野宿する。ここにきて、ジャン=マルクは西ヨーロッパの富裕のパリジャンではなくて、東ヨーロッパの漂泊のボヘミアンであることが示唆される。
自身の職業に拘らないジャン=マルクの人生に対する態度は、チェコスロヴァキアの共産主義政権において、政治的、経済的理由で、職業を剥奪されてきた、ミラン・クンデラの経験が投影されているように見える。私という人間は一人しか存在しないが、職業は無数に存在する。私たちはたとえ、今日の職業が昨日と違っても、明日の職業が今日と違っても、深刻に考えすぎてはいけないのである。
私はクンデラの小説の行間に、人生に対する軽やかな態度を見つけた。