物自体

この頃は読書と執筆のモチベーションが下がってしまって、机の前に坐るのも億劫なほどである。ここでひとつウイスキーをで飲んで奮起してみる。TINCUPという、前職の老人ホームの同僚から貰ったアメリカン・ウイスキーだ。華やかなのに落ち着いた味である。正直、EARLYTIMESとの違いが分からないが、私はアメリカンないしバーボンで、老成した風味の銘柄を見つけると嬉しくなる。アメリカのヤンキーもなかなか大人だな、と思う。巷では、シングルモルト・ウイスキーがもてはやされているし、私も美味しいと思うが、誰もが煙くさい大麦のウイスキーを飲みたい訳ではない。野趣味の中に落ち着きと華やぎのある雑穀グレーン主体のアメリカン・ウイスキーを私は讃える。

本題に入ろう。先日、吉行淳之介の『私の文学放浪』を読み終えた。

私は齢をとるにしたがって、ますます文学にたずさわる人物にたいして、懐かしい心持を抱くようになってきている。作品の良し悪しよりも、まず懐かしさが先に立つ。その理由は、戦時中に文学に捉えられたことに求めることができるとおもう。本当の敵は、文学に愛着をもっている人間の中にはおらず、ほかの世界にいるのである。

吉行淳之介といえば、酒場でホステス相手にワイダンを放じ、世間的には軽妙洒脱な印象を与えた作家である。それはそれで間違いではないが、その本質は真面目で硬質である。彼はどこかで、軽い鬱の時の方が、小説を書くのに適していると言っているが、本人も自覚していたように、多少、躁鬱の気があるのだろう。本書の調べはどこか憂鬱メランコリーである。

私は実生活では、ジャーナリズムに身を投じ、散漫な生活を送っているが、吉行淳之介を読むことで、再び文学に立ち返ることができるような気がした。実際には小説を書いていないので、いまだに離反は続いているのだが……。ただし、心に留めて置きたいのは、吉行淳之介も、二流、三流の雑誌記者をしたことがあるし、彼は作家として認められたあとも、雑誌記者の履歴を誇りに思っていたという事実である。おそらく、彼の文学は、彼自身のジャーナリストの資質と深く結びついている。銀座のバーに往く途中、彼はふいに真顔になって言った。

「文学というのは、『物自体』を書くものだと、ぼくはおもう」