日記を燃やす

作家には二つのタイプがある。日記を書く人と書かない人である。

吉行淳之介は最初の妻の日記を「俺は日記を書かない」という理由で、焚火にくべてしまった。彼はこの文学の形式を憎んでいた。

一方、辻邦生は、作家として認められる前の、彼の文学修業の消息を伝える『パリの手記』を公刊しているし、その後も『モンマルトル日記』など、小説を書くことの歓喜よろこびと苦悩を刻銘に伝える資料ドキュメントを発表している。彼はたぶん、敬愛する森有正とトーマス・マンの影響を受けていたのだろう。

日記は最も私的プライベートな文学のジャンルである。自然、修辞は抑制され、文体は簡素シンプルになる。文学を作為的、人工的な営みとして捉えるならば、これは弛緩であり、堕落である。衆人に曝してこそ、文体に、作品に、緊張感が生れるのである。吉行淳之介は多分、この点を意識していたはずである。彼はスタイリストであった。

私自身は2020年から本格的に日記をつけており、題名タイトルは「return 0」としている。C言語などの手続型言語の影響を受けている。「最初はじまりに戻れ」という意味だ。

昔の日記を読み返していると、様々な思いが去来する。あの人が好きだ、嫌いだ、夜勤がつらい、眠れない、等々である。日記は人生を反映している。苦しみそのものである。なので、時に書き続けるのが困難になるのである。

今年で「return 0」は終わりにしたい。そして、来年新たに「return 1」を始めるのだ。日記の醍醐味は自身の変貌の過程を如実に感じ取れることである。2022年の私と2023年の私は似て非なる者である。私は日記という形式を通じて、今後も変化を遂げて行く。