存在の美学

深夜、凶暴な感情に襲われる。大してストレスのない生活を送っているつもりだが、実はかなり無理をしている、綱渡りの生活を送っているのだろう。今では、教会というキリスト社会を抜きにして、私の生存は考えることはできないが、同時にライターという職業に私の実存のすべてを賭けているのである。これは単に食えるか食えないかの問題ではない。人としての尊厳の問題である。職業と自己同一性アイデンティティは無関係であると、優しい人は言うかもしれないが、その認識は市場ないし経済社会が許さないだけでなく、人間の存在の美学としての許しがたいのではないか。これは哲学者のフーコーが晩年に到達した考えであるが、それはニーチェの思想というよりも彼の生き方に負うところが多い。二人とも哲学に殉じて、悲劇的な最期を遂げたではないか。辻邦生は伝記小説『永遠の狩人』で、パパ・ヘミングウェイをして語らせている。「書かない私は私ではない。書かない私は存在しない」これぐらいひたむきな思考が時に必要なのではないか。自分を追い詰めることによって、ようやく見える真実があるのではないか。『ヨハネの黙示録』のアーメンたる者は告げる。「私はあなたの業を知っている。あなたは熱くもなければ冷たくもない」私達は今、一見微温なまぬるい時代に生きているが、それは仮象に過ぎない。現実の社会と人生の要求はもっと厳しいものである。