An Organist

森有正。どうして、彼の名を知ったのだろう。当時、愛読していた辻邦生の作品からかもしれないし、そうではないかもしれない。ただ、家族と職業を投げうって、故国 日本を捨てて、単身、パリで暮らし始めた男がいた、というのを知った。

当時、私は所沢で初めての一人暮らしをしていたが、睡眠薬が残った醒めきれない頭で、『バビロンの流れのほとりにて』を読んでいた。彼はリルケを愛読していた。ああ、私に似ているな、と一人納得した。唯一、分からなかったのが、その本のタイトルだが、今では『詩篇』137のオマージュであると分かる。

われらバビロンの河のほとりにすわり
シオンをおもひいでて涙をながしぬ

私が最初に彼に出会って、10年が経つ。「よく勉強しなさい」青年に対し、彼は口癖のように言っていたが、この間、私は不勉強のために、彼を十分理解したとは言えないかもしれない。しかし、今になって思う。私はこの人に似ている。しかも10年を経て、ますます似てきた、と。

片山恭一は、森有正のパスカル研究を次のように要約する。

自己の本質は虚無である。なぜなら自己は自己の中に起源を持たないからだ。人は自己の起源を、「において在ること」というかたちで、自己の外側に求めなくてはならない。〔…〕自己の存在の根拠を、他者のなかに自覚した関係が「愛」である1

パスカルに限らず、キリスト教の基本的な考え方だと思う。森がキリスト教の課題を真摯に受け止めていたという事実を、その伝統の下にあることを忘れてはならない。

人間の自己は、その中心に無限の虚無を孕んでいる、というのが森の基本的な認識でした。だから「自己」や「人間」から出発してはならないのです。個々の経験が、それ自体としては空虚である自己に、「人間」という実体を与える、と言うべきでしょう2

小説家 片山恭一にとって、芸術、就中、文学は自由を実践することであった。彼は次のように言う。

文学や音楽や美術を志すことは、現実の人生においてはほぼ不可避的に、自己をより強固に限定し、自らをさらに窮屈な場所に押し込むことになります。それでも私たちが文学や音楽や美術を止めようとしないのは、しばしば現実的な困窮を伴う自己限定の場所で、無限の自由を味わう(ように感じられる)瞬間があるからです。それは無限の自己否定であるとともに、無限の自己超越でもあります3

それは人間であることの軛を越えている。この地上において、人間であることは条件であると同時に限界である。私達は皆、憐れな肉体に閉じ籠められている。そして、そのために罪を犯す。芸術は肉体の牢獄からの脱出を促すと同時に、そのカタルシスによって、私達の罪を浄める。

こうした表現行為の究極は、無限の自己否定と自己超越の果てに、人間であることから自由になることだと思います。それは人間であることの自然から自由になることであり、人間であることからの倫理から自由になることです4

芸術家にとって、人間は克服すべき課題そのものである。彼の業は神に近づく。それは太古のエデンで、アダムとエヴァが享受していた無垢の境地に似ている。それは地上の人間的な尺度ヒューマニズムを超えている。人は神と居ることで、本当の自由を得るのだ。

人は自由であることにおいて、人間を超えている。つまり、自由とは、人間であることからの自由も含んでいる5


  1. 片山恭一『どこに向かって死ぬか:森有正と生きまどう私たち』(NHK出版、2010年)228頁。
  2. 同上、232頁。
  3. 同上、246-247頁。
  4. 同上、247頁。
  5. 同上、247-248頁。