ルビぞ愛しき

辻邦生という小説家がいる。私はこの人から文体について多くのことを学んだ。特に彼のルビ遊びはおそらく文学史上類を見ないものである。『西行花伝』では、森羅万象いきとしいけるもの実在感たしかさのように読者に読ませる。かなしさ、という読み方も、私は彼から学んだ。この「かなしみ」について、詩人、批評家の若松英輔は次のように指摘している。

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、いつくしむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っているというのである1

若松英輔に及ぶべくもないが、それでも私は彼と多くの資質を共有している。キリスト者であり、批評家であり、詩人であるということである。悲哀、挫折、敗北のような一見、負の感情、負の出来事にも、積極的な意義を見出す所も似ている。評論を書く際の文章、詩句の引用の仕方まで似ている。昔なじみの友人に邂逅した時のような、親しく、優しい気持になるのだが、それがかえって重苦しくなる時があるので、遠ざけたくなることもある。しかし、彼の直線的ではない、ある意味早熟ではない文筆家としての履歴も私の励みになるだろう。「病がなければ、こうして言葉をつむぐ仕事に就くこともなかっただろう2」。私は半年前、社会福祉法人の正社員の椅子から降りた。要するに出世コースから外れた訳だが、次の言葉にも頷くしかなかった。

12年間の会社勤めで、もっとも重要な出来事は降格である。昇格ではなかった。大切なものの多くは、降格を機に経験した3

私達の好きはリルケは歌った。「落ち降るさちがあるのを知る時に」。


  1. 若松英輔『悲しみの秘義』(文春文庫、2019年)13頁。

  2. 同上、76頁。

  3. 同上、113頁。