地獄の一丁目を歩く

「俳句を詠むためには地獄を通過しなければならない」誰かが語った言葉だが、俳句を素人としてではなく、玄人として極めようとすると、その先には魔道が潜んでいるらしい。この感覚は私のようなアマチュアの権化のように見られている人間でもそこはかとなく分かる。私は松尾芭蕉には暗いが、晩年の飯田龍太は修羅の形相をしていた。地獄を見据えているようであった。そのためにその御作が共通感覚コモンセンスから逸れることがしばしばあった。俳句を真剣に取り組んだ人にしか分からない、痛ましい生き様だった。

俳句に限らず、短歌、小説で凄い作品を書く人は、一見、非の打ちどころのない紳士、淑女である場合が多い。この人がこんな凄い作品を書くのか。たとえば、北杜夫が倉橋由美子に抱いた感想がそうだった。すべての作家が鷹の眼をしているとは限らない。しかし、その内面生活は窺い知れないのだ。

「小説家は血を流していますよ」私が昔勤めていた出版社の社長は折に触れて言った。「詩と小説は革命が起きるでしょう。俳句と短歌にそれが出来るかね?」彼は短詩形文学の可能性には懐疑的だったようだが(それを生業にしたために、いささか食傷気味になってしまったのかもしれない)、社長の金で酒を飲み、焼鳥を食らう、まだ世間と人生の深奥を知らない26歳の私は戦慄したものだった。血を吐くような思いをしなければ、瑕ものにならなければ文学はできないのか。

海の傷もたぬものなし桜貝1

あれから10年が経つ。小説はまだ書けないけれど、当時に比べれば、韻文、散文は書けるようになった。自分の文体スタイルも会得しつつある。トーマス・マンの小説『ファウストス博士』の主人公、作曲家 アドリアン・レーヴァーキュンは言った。「熱くもなく、冷たくもないことは唾棄すべきことだ。僕は生ぬるい人間にはなりたくない2」その草稿を読んだ或る作家は「この男は地獄を見るな」という感想を抱いた。私はどうだろう。ようやく短歌を書けるようになった。しかし、小説はまだ書けないではないか。「社長、私は血を流していますか?」


  1. 檜紀代の作。

  2. 『ヨハネの黙示録』のオマージュである。