修道士の業

昨夜は体調が上向いてきたので、京成小岩のBar Upstairsに飲みに行った。

twitter.com

初めにジントニックで喉を湿らしたあと、ギムレット、オールドファッションなどのジンベースウイスキーベースのカクテルで血中アルコール濃度を上げていく。

〆はシャルトリューズ ヴェール。この銘柄はフランスの同名の修道院によって蒸留されており、「リキュールの女王」と呼ばれている。

修道士が酒を製造、販売するなんて、不道徳かと思われるかもしれないが、この売り上げは同院の貴重な資金源なのだろう。それに宗派によって異なるが、キリスト教は飲酒を禁止していない。むしろ、酒は人の罪を清めて、神に立ち返るための神聖な飲物である。ゆえに、私はこの宗教が好きなのだ。

6時間くらい眠っただろうか。今月中頃まで抗精神病薬による不眠が続いていたが、この頃ようやくまとまった睡眠を取れるようになった。体が薬に慣れたのだろう。それとも、シャルトリューズ、修道士の業のお蔭だろうか。

起きがけにパソコンの電源を点けると、デスクトップのUI(User Interface)が大きく変わっていた。前回のWindowsの更新プログラムの取得の際に、Windows 11に勝手にアップグレードされていたのだ。戸惑いつつ、各種設定をしていると、Windows 10の複雑怪奇なシステムがシンプルに改良されていることに気づく。百聞は一見にしかず、Windows 11は前作よりも完成されたOSだった。そのファイルマネージャー(Explorer)の角は取れ、優しく、丸くなっていた。

f:id:takashi19861223:20211119194718j:plain
Windows Explorer

ビル・ゲイツの息子

パソコンを買い換えた。

今まで使っていた機体はモニターのノイズが激しくて(原因はおそらく接触不良)、たとえばZoomでミーティングの最中、モニターの仰角を変えると、青い閃光が明滅し、視るに堪えない。このままでは仕事に支障が出ることが予想されたので、この際、思い切ってパソコンを新調した。

それがこれ。

f:id:takashi19861223:20211118071725j:plain
mouse C4

再びマウスコンピューターである。mouse C4という機種である。同社のPCは、BTOメーカーにありがちな、キーボードなどの作りがちゃちな印象があったが、余計な機能が付いていない、シンプルな仕様なので、今回もリピートした。CPU:Celeron、メモリ:8GB、SSD:256GBの構成は、今日の目で見れば、標準というよりも貧弱かもしれないが、私のパソコンの用途の9割以上はテキストエディタで文字を打つだけなので、特に問題はない。OSはWindows 10。11にアップグレートできるが、これは駄作と聞いているので、10のまま走り続けるつもりだ。途中、Linuxをインストールするのも楽しい。ちなみにWSL(Windows Subsystem for Linux)はUbuntuではなく、Debianを選択した。

世間では、老いも若きも、猫も杓子もスマートフォンばかりいじっているが、私は個人の才能を開発する点で、パーソナル・コンピューターを深く愛している。その意味で、私はプログラミングはほとんどできないが、ビル・ゲイツの精神的息子、Geekなのだろう。

理論と人間

政治学などの社会科学の理論は客観的に、価値中立的に構成されるのではない。そこには観測者の階級などの社会的属性や、宗教などの価値判断が色濃く投影されている。社会学者のカール・マンハイムはこのように、社会科学の認識の存在拘束性を指摘したが、経済学も例外ではない。本書『ケインズハイエクか』は、経済学者の人柄と経済学の理論がいかに結び付いていたかを示す事例に満ちている。

ケインズはハンサムではなく、彼自身も自分を魅力的だとは思っていなかったが、堂々たる体躯で存在感があった。身長は198cm、少し猫背なのは図体の大きな生徒だったころについた癖だった。イートン校を卒業するとすぐに、彼はたっぷりの口ひげをたくわえた。もっとも人目を引いたのは、深くくぼんだ、温かい、吸い込まれそうな栗色の目で、内面の注意力を物語っていた。男性も女性も彼の虜になった。その滑らかな声は彼の魅力に惑わされない人々すら惹きつけた1

優れた評伝は、ある人物の人となりを伝えるだけではない。その人の思想、理論、創作の秘密を解明する。

このころケインズの頭を占めるようになったのは、1920年代初めの英国を悩ませ続けた高失業率の問題だった。彼の原動力になったのは仕事のない人々への同情と、多数の失業者の発生を不可欠とみなしているかのような経済運営に対する憤りだった2

このような個人的な感情(義憤、と言うべきか)が、政府が市場利子率を操作し、公共投資で需要を、減税で消費を刺激して、完全雇用を実現する『雇用・利子および貨幣の一般理論』に結実することになった。また、彼の大蔵省で働いた経験、つねに体制側、社会の支配階級——権威オーソリティに属した事実は、経済を大局的に把握する、マクロ経済学を創始した。戦後、先進諸国が低成長、財政赤字に苦しみ、ケインズ主義が批判に曝されても、彼の仕事は忘れ去られることはなかった。LSE(London School of Economics)の代表的な論客として、ケインズを批判したハイエクも、彼の『一般理論』に衝撃を受けた。

しかし、何の反応も示されることはなく、ハイエクは沈黙したままだった。彼はケインズの渾身の力を目の当たりにして驚愕していた。何週間たっても、期待されたハイエクの猛烈な反論は出てくる気配がなかった。彼の人生は無に帰したかのようだった3

ケインズマクロ経済学は、戦後、西側先進諸国の政策決定者の理論的支柱として見なされた。ポール・サミュエルソンは言った。「私達は皆、ケインズ主義者だ」。しかし、保守党のマーガレット・サッチャーに見いだされるまで、ケインズの影に隠れて、無理解、無関心の荒野を歩み通したハイエクの言葉には凄みがある。

「われわれに欠けているのは自由を尊ぶユートピアであり、それはたんなる現状維持でも、希薄化された社会主義でもなく、真に自由を尊重する急進主義とみなすべき計画である。真の自由主義者社会主義者の成功から学ぶべき最大の教訓は次のことである。彼らが識者の支持を勝ち取り、それによって世論も動かせたのは、彼らが勇気をもってユートピアの住民になろうとしたからだ4


  1. ニコラス・ワプショット(久保恵美子/訳)『ケインズハイエクか』新潮社、2012年、20頁。

  2. ニコラス・ワプショット、前掲書、47頁。

  3. ニコラス・ワプショット、前掲書、178頁。

  4. ニコラス・ワプショット、前掲書、331頁。ハイエクの言葉。

ブロガーの先へ

WEB 2.0の伝統

小岩の飲み友達と、鳥勢で焼鳥をつまみながら話していると、
「兼子さんの文章、noteに書いて収益化した方がいいですよ」
と言われた。

www.koiwatorisei.com

しっかりとした文章を書いていると評価されたらしい。それは有難いことだが、noteに記事を書くという話は、医療・福祉に特化したブログを作りたい、という所まで進んだが、実際、いつ開設するかという詳細な点は酔いが回ってウヤムヤになってしまった。

しかし、私がnoteに書くことに気乗りしない理由は、アルコールだけに帰することはできないだろう。

まず、はてなブログ BOOKMANでさえも更新が滞りがちなのに、さらにブログを開設して、少ないリソースを分散するのはいかがなものか。私もいろいろな媒体に書けるほど、ネタが豊富ではないのだ。

また、はてなブログMarkdownで書けるが、一方、noteはMarkdownはおろかHTMLでも編集することはできない。ブラウザ上のGUIエディタのツールバーをマウスでポチポチしなければいけないのだ。これは困る。私にとって、文章を書く喜びはコードを書く喜びと同義なのだ。そのためにはPCのテキストエディタを開いて、キーボードを打鍵し、文字を打ち込まなければならない(ルーズリーフ、あるいはプリント用紙に鉛筆で手書きでも構わないが)1。その過程が好きなのだ。今更、WYSIWYGに戻れない(私はWordをほとんど使わない)。そして、何よりも肝心なことは、ブログのフロントエンドのサービスに頼らず、PCのデスクトップで完結することは、テキストの編集、管理の裁量権を執筆者、編集者が握ることを意味する。

noteの有料記事は閲覧制限がかかっていることもネックだ。基本的にブログは誰でも気軽に、簡単に執筆、閲覧できる、オープンであることによって発達してきた。WEB 2.0の思想である。株式会社はてなも創業の頃から、この理想に賛同して事業を展開してきた。日常的にオープンソースフリーソフトウェアを愛用している私は、はてなを応援したい。株も買いたいくらいだ。そして、私がブログを書く最大の理由は、金を儲けることではない、たくさんの人々に私の文章を読んでほしいのだ。

現行のブログ BOOKMANを質量ともに充実させること。今、私にできることは筆力を向上し、更なる読者を獲得することなのだ。

ブロガーからジャーナリストへ

私が新しいブログを開設するのに二の足を踏むのは、別の理由がある。私はブロガーではなく、ジャーナリストになりたいのだ。

いま、私の文章はこのブログでしか公開していない。その点、私は主観的にも客観的にもブロガーである。

しかし、それでは困るのだ。金を稼がなければならない。名声を獲得しなければならない。そのためには本を書く必要があるのだ。新聞、雑誌にも書き散らす必要があるだろう。Journalistの語源は、世界を探訪し、記録し、編集する者である。ブログに書いているだけでも、この定義に当てはまるが、やはりジャーナリストとしては力不足だろう。執筆する媒体の数に比例して、関心、精通する分野の数も増えていく。それはジャーナリストとしての器を拡げるはずだ。未知の世界に言葉を与える——それがジャーナリストの使命だ。

来年、個人事業主として独立する。文学賞への応募、出版社への持ち込みを精力的に行いたい。


  1. スマートフォン、あるいはタブレットがあれば、仕事でも何でもできると豪語する人がいるが、スワイプはタイピングに比べると、コンピューティングとして退行しているように思える。

身の丈に合わない服

悪夢

午前2時に目を覚ます。

それまで私は夢を見ており、大学の芸術学部に所属して、卒業制作の〆切に追われて、小説を必死に書いていた。しかし、〆切当日になっても、原稿はまったく進まない。

「(原稿は)短歌ならある!」
と切羽詰まって叫び声を上げる私に、学友は、
「いや、それは約束が違うだろ」
と、冷静に反駁する。

原稿はほぼ白紙であるにもかかわらず、私は審査を受けるために廊下で待っていた。教室の奥にある長テーブルの前に指導教官が坐っているのが見える(そのうちの一人は実在する、某出版社で一緒に仕事をしたことがある、鬼編集長である)。私は白紙を握りしめたまま、彼らの前に立った。すると、「もう、この辺でいいだろう」と言う、第三者の審級が聞こえた。

悪夢は終わった。

転向

いつからだろう? 私は小説家を目指しており、私の専門は文学だと考えていた。新卒後、出版社を渡り歩き、なんとなく文学的環境に身を置いていたけど、小説を実際に書いた本数は指で数える程度しかなく、もちろん、投稿したこともない。小説修行の場を探したけれど、見つからないので仕方なく、短歌の結社に入って、5年くらい活動したけど、ここでは小説を書くこととは別の能力が開発された気がする。そんなこんなで、なんとなく小説を書きたいけれど、書けない——書かない、状態が続いている。

私が小説を書きたい、文学を書きたい、と思った時点で放棄した学問がある。——政治学(Politics)である。

大学で4年間、大学院で2年間、この学問を学んだのに、時間と学費の無駄遣いではないかと思われるかもしれない。そのとおりかもしれない。しかし、当時の私は(political Science)のカラカラした無味乾燥な文体では文学は書けないと思い込んでいた。けれども、これは当時の私に起きた事態の半分も説明していなくて、本当の事情は、大学に残れなくなった私は、学問を続けられなくなることに絶望して、政治学を捨てて、文学に逃げたのだ。しかし、荒川洋治が「文学は実学である」と主張するように、文学は由緒正しき学問であるという事実を早々と認識することになる1。私が曲がりなりにも今日まで勉強を続けてきたのは文学のこの性質に負う所が大きい。

今、私は小説よりも伝記を、あるいは政治学思想書、理論書を好んで読む。私の関心は文学から政治学に回帰——転向した。一時は小説家を志したものの、小説は私の身の丈に合わなかったのかもしれない。けれども、文学と完全に縁が切れたと思えない。小説を上衣とすれば、文学は下着のようなものだ。私は物事の厳密な定義をあまり好まない。お話し好きの私にとって、話し言葉と書き言葉は車の両輪なのである。文学はいつまでも私に、溌溂、優美な気風を与え続けるだろう。私は文士ジャーナリストを目指しているが、自然、政治(Politics)を語ることが多くなるだろう。文士はエキスパートであると同時にアマチュアである2。しかし、もし専門があるとすれば、私の場合、政治学である。評論、評伝、記事を書くことが私の仕事の中心になるはずである。そして、余技として、小説を短歌を記すのだろう。


  1. 文学はしばしば人文科学に分類されるが、文学は科学なのかはなはだ疑問である。文学の楽しみは、普遍的客観的真理を発見するのと同等に(あるいはそれ以上に)、個人的主観的経験を理解することにある。

  2. エドワード・サイードの知識人の概念に相当する。

本妻の周辺

今、私が自宅で使っているコンピューターのOSはWindows 10なのだが、昨夜、思い切って、デスクトップ環境を見直した。すると、こうなった。

f:id:takashi19861223:20211028142326j:plain

タスクバーに置く項目はWindowsのスタートボタンのみに絞った。お気に入りのアプリケーションをごちゃごちゃ置かず、現在、走らせているプロセスだけが表示されることになる。また、今まで放置していたスタートメニューを次のように整理した。

f:id:takashi19861223:20211028142342j:plain

それぞれのタイルに使用頻度の高いアプリケーションを置いた。キーボードのWindowsキーで呼び出すので、タスクバーに置くよりも一手間かかるが、慣れてしまえばどうということはない。

しばらく使っていると、Windows XPを使っていた頃を思い出した。このOSで初めて、Microsoftはタスクバーにアプリケーション・ランチャーを設置したけれども、だいたいの操作はスタートメニューを開いて始めていた。

思い返せば、ランチャーの概念はmac OSが普及させたが、この機能を中途半端に取り入れたWindowsはシンプルであることを放棄して、むしろ、使いにくくなってしまったのではないか(一方、mac OSのデスクトップを徹底的にパクったUbuntuのUnityの方が使いやすかった)。Windowsは「シャットダウンするにもスタートボタンを押さなければならない1」と嘲笑されても、愚直にスタートボタンを押し続けるのが御作法なのだ。それがWindowsのコンピューティングなのだ。

そんなことを書いていたら、Linuxの標準的なデスクトップであるGNOMEKDEXfceも、どれほど進化しても、頑なにスタートボタンが用意されていることに気づいた。私の本妻はWindowsであり、Linuxは一号、二号、三号である2。—— I love Windows and Linux.


  1. しかし、プロセスとして考えると、矛盾していないのではないか。

  2. WSL(Windows Subsystem for Linux)のUbuntuを愛用しているが、やはり、コンソールに閉じ込めておくのは可哀そうだ。デスクトップOSとして堂々と使いたいものである。

立ち読みのススメ

元来の落ち着きのなさのせいか、それとも、抗精神病薬の副作用 アカシジアのためか、容易に原因を特定することはできないけれど、椅子にじっと坐って本を読むのが困難になった。したがって、書斎の中でも、立ったり、歩いたりしながら、本を読むことになった。——つまり、立ち読みである。すると、どうだろう。私の肉体と精神に思わぬ変化が起こった。

まず、眠くならない。体を揺すったり、踵を浮かせて、小刻みに歩き回るので、睡魔に襲われる隙がない。また、腰痛、座骨神経痛になる心配からも解放されている。整形外科の先生が言っていた。「坐ってはいけない。立つのが一番身体にいいのだ」

また、神経ないし精神にも嬉しい影響があった。立ち読みすることにより、思考が活発になるのである。行を追いかけるスピード、頁をめくるスピードが、1.5倍、もしかすると、2倍くらい向上したのではないか。生理的律動リズムにおいて、肉体と精神は連動している。私は今まで遅読であったが、意外な方法で速読が可能になった。思えば、書店でチンタラ立ち読みしている人はいない。客はすばやく行間に目を走らせて、買うべきか否かを判断する。

立ち読みのついでに、立ち書きもできないか、試してみたが、私の机はスタンディングデスクではない、ごく普通の文机なので、すぐに腰が痛くなってやめた。しかし、いつか部屋の間取りに余裕ができたら、導入を検討したい。TeXの開発者のドナルド・クヌースも立ってコードを書いているではないか。