身の丈に合わない服

悪夢

午前2時に目を覚ます。

それまで私は夢を見ており、大学の芸術学部に所属して、卒業制作の〆切に追われて、小説を必死に書いていた。しかし、〆切当日になっても、原稿はまったく進まない。

「(原稿は)短歌ならある!」
と切羽詰まって叫び声を上げる私に、学友は、
「いや、それは約束が違うだろ」
と、冷静に反駁する。

原稿はほぼ白紙であるにもかかわらず、私は審査を受けるために廊下で待っていた。教室の奥にある長テーブルの前に指導教官が坐っているのが見える(そのうちの一人は実在する、某出版社で一緒に仕事をしたことがある、鬼編集長である)。私は白紙を握りしめたまま、彼らの前に立った。すると、「もう、この辺でいいだろう」と言う、第三者の審級が聞こえた。

悪夢は終わった。

転向

いつからだろう? 私は小説家を目指しており、私の専門は文学だと考えていた。新卒後、出版社を渡り歩き、なんとなく文学的環境に身を置いていたけど、小説を実際に書いた本数は指で数える程度しかなく、もちろん、投稿したこともない。小説修行の場を探したけれど、見つからないので仕方なく、短歌の結社に入って、5年くらい活動したけど、ここでは小説を書くこととは別の能力が開発された気がする。そんなこんなで、なんとなく小説を書きたいけれど、書けない——書かない、状態が続いている。

私が小説を書きたい、文学を書きたい、と思った時点で放棄した学問がある。——政治学(Politics)である。

大学で4年間、大学院で2年間、この学問を学んだのに、時間と学費の無駄遣いではないかと思われるかもしれない。そのとおりかもしれない。しかし、当時の私は(political Science)のカラカラした無味乾燥な文体では文学は書けないと思い込んでいた。けれども、これは当時の私に起きた事態の半分も説明していなくて、本当の事情は、大学に残れなくなった私は、学問を続けられなくなることに絶望して、政治学を捨てて、文学に逃げたのだ。しかし、荒川洋治が「文学は実学である」と主張するように、文学は由緒正しき学問であるという事実を早々と認識することになる1。私が曲がりなりにも今日まで勉強を続けてきたのは文学のこの性質に負う所が大きい。

今、私は小説よりも伝記を、あるいは政治学思想書、理論書を好んで読む。私の関心は文学から政治学に回帰——転向した。一時は小説家を志したものの、小説は私の身の丈に合わなかったのかもしれない。けれども、文学と完全に縁が切れたと思えない。小説を上衣とすれば、文学は下着のようなものだ。私は物事の厳密な定義をあまり好まない。お話し好きの私にとって、話し言葉と書き言葉は車の両輪なのである。文学はいつまでも私に、溌溂、優美な気風を与え続けるだろう。私は文士ジャーナリストを目指しているが、自然、政治(Politics)を語ることが多くなるだろう。文士はエキスパートであると同時にアマチュアである2。しかし、もし専門があるとすれば、私の場合、政治学である。評論、評伝、記事を書くことが私の仕事の中心になるはずである。そして、余技として、小説を短歌を記すのだろう。


  1. 文学はしばしば人文科学に分類されるが、文学は科学なのかはなはだ疑問である。文学の楽しみは、普遍的客観的真理を発見するのと同等に(あるいはそれ以上に)、個人的主観的経験を理解することにある。

  2. エドワード・サイードの知識人の概念に相当する。