春眠

転職が決まった。4月からは某業界新聞の記者ライターとして働くことになるが、それまでに酒と煙草を控えて、体調を整えておきたい。特に紙巻シガレットは癖になり、オフィスワークの支障になるので、今のうちに辞めておきたい。ただし、パイプは辞めない。

今回の転職にあたっては、ライターを含めた出版業、文筆業の経歴だけでなく、先の4年間の介護福祉の経験を評価してくれたことが嬉しい。「人生に無駄なものはない」としばしば言われるが(実際の世界は無駄なものでイッパイであるが)、徒労ないし突き詰めれば苦役としか言いようがない介護の経験を買われるとは思わなかった。介護福祉士の資格を持っていることも、採用担当者に大きな印象を与えたと思う。経験とそれを証明する資格は大切なんだな。

今月は確定申告もあるし、新生活に向けていろいろ準備しなければいけないことも山ほどあるから、創作は控え目になると思う。その代わり、読書はどっさりしたい。今は準備のための溜めの期間だ。

時宜

あましたよろずことにはあり
よろず事務わざにはときあり
うまるゝにときありぬるにときあり
うるにときありゑたるものくにときあり

『傳道之書』

この頃、作品と呼べる物をほとんど書いていない。小説はむろん、短歌も新作を書くというよりは、すでに書き溜めたものをリライトばかりしている。転職活動で余念がなくなり、創作に意識を向けることが難しくなったことが一因として考えられるが、原因はそれだけではない。たぶん、創作に不毛な時期なのだろう。ライターは書かなくば存在しない。書けなくなること、それはライターの死を意味する。この不毛な時期をどう過ごすか。創作は最低限にして(あくまで書くことは止めない)、執筆以外の活動に労力を振り向けることである。

たとえば、普段の執筆は日記とブログと短歌にとどめておいて、それ以外の時間は読書、料理、恋愛などその他の活動に没頭する。その経験が後の創作の肥しになると信じて、不毛な季節を耐えるしかない。介護の4年間を通じて、私は現実に静かに耐えることを学んだ気がする。——書くに時があり、読むに時がある。

ビートルズのなぐさめ

新宿のとある業界新聞の面接のあと、私は昂った気持を鎮めるために、喫茶店に入り、hi-liteを一喫した。紫煙を燻らせながら、店内のスピーカーに耳を傾けていると、懐かしい曲が流れてきた。The Beatlesの"Hey Jude"である。その歌声を聴いた瞬間、私の疲労つかれ悲哀かなしみに形を与えてくれるのは彼等の音楽であると理解した。叔父から貰ったThe BeatlesのCDを聴き倒す日々がしばらく続くだろう。


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昨日、職場の後輩の家に集まって、ピザ&寿司パーティーを行った。介護福祉士国家試験の慰労をかこつけて、要するに男同士でワイワイやりたかったのである。コロナが明けて、こういう催しがようやく大っぴらにできるようになった。みんな、我慢していたのだ。日々の辛い労働に耐えるには、時々の楽しい出来事が必要だ。当たり前のことである。

御馳走に舌鼓を打っていると、不意に会話が煙草などの嗜好品に移った。私がパイプを弄んでいると、後輩が部屋の片隅から化粧箱を取り出して言った。「4年間おつかれさまでした。これは僕達の気持です」箱を開けると、葉巻シガーが3本入っていた。私と同期の同僚が銀座の菊水で買ってきてくれたのだ。この頃、金に不自由していたから、このような贅沢品を手にするのは久しぶりである。

ありがとう、中川くん。君が呉れる贈物プレゼントは、いつも私の趣味嗜好を考慮した、本当に嬉しい品物ばかりだ。私はいつも君のことを「自分のことしか考えていない」とたしなめているが、実際、私の方が遥かにエゴイストだ。君は仕事を通じて、愛し愛される。幸せになれる。ただ今は若いから苦労くるしみが多いだけだ。君の重荷を少しでも軽くするために、私達大人を使ってくれてもいい。そのために私達は存在するのだ。

聖書と辞書

先日、十蔵寺さんと離床介助をしていた時のことだ。「兼子さんは最近、何の本を読んでいますか?」満面の笑みで訊かれたものだから、こちらはしどろもどろになってしまったが、それ以上に当惑したのは、私が本を大して読んでいない、ということである。「この頃は聖書と短歌雑誌しか読んでいません」と、私は白状した。

書架にはもう本を納めきれないし、書斎の片隅の本の山はうず高く積もる一方である。今後、ライターとして身を立てたいと思えば、酒を控えて、読書と執筆に当てたいが、これも少しも改まる気配がない。否、生活習慣は転職すれば、ある程度改善することができるのではないだろうか。

しかし、もう少し本を読みたいなと思う一方で、私は究極的には、本は聖書と辞書があれば十分である。もし、離島に流刑になって、3冊だけ本を持ち込むことを認められたら、私は迷うことなく、聖書と英和辞典と独和辞典を持ち込むだろう。もちろん、聖書は文語訳にかぎる。もう少し欲を出せば、トーマス・マン、辻邦生、開高健の小説を持ち込みたいが、先の3冊に比べれば、余計な物なのかもしれない。

追伸

さっき、池袋のビックカメラで買い物をした時、レジ・カウンターに聖書を置き忘れてしまった。階段を降りる私を店員さんが追いかけて言った。「お客様、辞書をお忘れですよ!」普通の人から見れば、両者を見分けることは困難らしい。

寝落ち

昨夜は遅番。男同士で仕事をしていると、下手に気を遣わなくても、それぞれが黙って働くので、仕事がすいすい進む。この現場感覚は気持いい。大切にしたい。

深夜、友達が遊びに来る。ウイスキーを飲みながら歓談していたが、私が途中で寝落ちしてしまった。以前は彼の方が居眠りしていたが、この頃の私は本当にだらしがない。日頃、肉体労働に従事していることもあるが、それ以上に神経が張りつめているのだろう。

就職活動が佳境に入っている、と思いたい。近々、面接がある。よく準備して臨みたい。新年度、ライター/エディターとして、新しいスタートを切りたいものだ。

創作は短歌を少々。散文作品がまったく書けずにいる。小説を書きなさい。習作なのだから出し惜しみしてもしょうがない。早くこの不毛な状況を打破したい。

悔悟

今年の3月末で私が退職することは周知の事実だが、正直、遅きに失したという感じだ。

本当は介護福祉士の資格を取った2022年4月に、会社とその仕事に見切をつけて、きれいさっぱり辞めるべきだった。つまらない人情と矜持プライドに引き摺られて、非常勤でズルズル続けたのは完全に間違いだったと思う。フリーランスで活動した1年間の助走期間は確かに必要だったかもしれない。不自由な、不如意な条件の中で、ベストを尽くしたと思う。しかし、いま振り返れば、介護を捨てて、ライターとして全力を投入すべきだった。彼等に責任は些かもないが、他人の助言に従ったのが、そもそもの間違いだったのだ。どうして、私は自分の意志、自分の希望をもっと尊重して遣れなかったのだろうか。

山谷の基督』を書いたあと、精神的な真空状態に陥っている。

今後、私がライターとして活動するためには、下手に文学趣味を持たない方がいいと思う(それでも短歌を辞めないが)。ハッキリ言って、私に小説の才能、フィクションの才能はないので、愚直にルポルタージュと私小説を書き続けるしかない。格好悪いかもしれないが、体験ないし経験を切り売りしなければならない。私はアカデミックな政治学者 Political Scientistになることを諦めた人間だが、ジャーナリスティックな政治記者 Political Writerとして健筆を揮う野心まで棄ててはいない。そもそも書くということは、考えることを断念した後に来る行為ではないだろうか。マルグリッド・デュラスは言った。「書くこと、それは絶望的な行為おこないだわ」しかし、別の場面では次のように語った。「私は自殺をしないために書いているのよ」やはり、書くことは希望に通じている。そう思いたい。

通常運行

今朝は教会に行く予定だったが、諸般の事情で取り止めにした。洗礼準備中なのに、だらしがないではないか、と言われそうだが、私の私事プライベートが充実することはそうそうないので、これはこれで善しとする。

就活の予定を入れすぎて、捌き切れなくなったことは自分でも反省している。もう二十代の新卒の頃とは違うのだ。時間もないし、体力もない。板野サーカスのように大量にミサイルを打ち込んで、そのうち一発を当てるのではなく、よく照準を定めて、確実に目標を仕留めるやり方でなければならない。その瞬間に、知力と体力、そして時間の全リソースを集中させるのである。

今回、何よりも心残りだったのが、就活に一切のエネルギーを投入したために、総体的な創作活動が停滞したことである。短歌と小説はもとより、ブログさえ書けなくなった。特に後者に関しては世間の目を意識して書くのが憚れたことが最大の原因である。今後は書き手として、そういう面も対処しなければならない。

私がライターとしてコンスタントに書き続けるためには、普通に仕事をし、労働する中で、普通に仕事を探さなければならない。フェリークス・クルルが「この生活とあの生活は並行しているのです」と言ったように、そういう曲芸師の業を平気でしなければならない。だから、就活は週1回位が限界であるし、その間、つなぎの仕事をしていても少しも恥ずかしいことではない。肝心なのは作品を書き続けること、そのための環境を整えることである。畢竟、今回の転職はその作業の一環に過ぎないのだから。

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