悔悟

今年の3月末で私が退職することは周知の事実だが、正直、遅きに失したという感じだ。

本当は介護福祉士の資格を取った2022年4月に、会社とその仕事に見切をつけて、きれいさっぱり辞めるべきだった。つまらない人情と矜持プライドに引き摺られて、非常勤でズルズル続けたのは完全に間違いだったと思う。フリーランスで活動した1年間の助走期間は確かに必要だったかもしれない。不自由な、不如意な条件の中で、ベストを尽くしたと思う。しかし、いま振り返れば、介護を捨てて、ライターとして全力を投入すべきだった。彼等に責任は些かもないが、他人の助言に従ったのが、そもそもの間違いだったのだ。どうして、私は自分の意志、自分の希望をもっと尊重して遣れなかったのだろうか。

山谷の基督』を書いたあと、精神的な真空状態に陥っている。

今後、私がライターとして活動するためには、下手に文学趣味を持たない方がいいと思う(それでも短歌を辞めないが)。ハッキリ言って、私に小説の才能、フィクションの才能はないので、愚直にルポルタージュと私小説を書き続けるしかない。格好悪いかもしれないが、体験ないし経験を切り売りしなければならない。私はアカデミックな政治学者 Political Scientistになることを諦めた人間だが、ジャーナリスティックな政治記者 Political Writerとして健筆を揮う野心まで棄ててはいない。そもそも書くということは、考えることを断念した後に来る行為ではないだろうか。マルグリッド・デュラスは言った。「書くこと、それは絶望的な行為おこないだわ」しかし、別の場面では次のように語った。「私は自殺をしないために書いているのよ」やはり、書くことは希望に通じている。そう思いたい。