継続

4時。未明に起きて小説を書き始めた。特に早起きしたつもりはないが、22時に寝れば起きるのはこの時間だろう。

小説はノートに万年筆で書いている。別に鉛筆で書いてもいいのだが、文房具の女王は万年筆だと思っているので、これで書いている。パソコンのテキストエディタで書いてもいいのだが、ファイルを開けると「うわっ……」と嫌悪感を催す時があるので、状況に応じて手書きと使い分けてもいいだろう。

小説は毎日1時間書くのが目標だ。これを3年間続ければ、私は本物の小説家ライターになるだろう。前回の記事と同じことを書いているが、この点は銘記されていい。並行して短歌の創作も再開したいくらいだ。

新聞記者ジャーナリストをしていて、澱のように溜まった不安や不満を小説にぶつける。新聞記事やブログでは表現できないことがある。そういうつもりで私はこの文学の仕事に向き合っている。

習慣

小説を書き始めたものの、冒頭で筆が止まっている。1週間以上も原稿を放置したままである。書けない訳ではなく、書き続けることができないのが最大の問題だ。小説を書くことが私の中で習慣化されていないのだろう。日記やブログと同じように小説も毎日書き続けることが大切なのである。川端康成の『掌の小説』のように掌編を書いてみようかと思うが、あの形式に収めるのも技術が必要なので、四の五の言わず書き続けることが大切だ。

以後、毎日1時間、小説執筆の時間を課そう。3年間続ければ、私は本物のライターになっているはずである。

節制

四ツ谷の鈴傳でいつものお二方とイッパイやったあと、小岩の陋屋に帰宅する。10時間くらい眠る。

最近、酒を飲みすぎていると思う。このままでは痛風は治らないし、体重も減らないだろう。本当に酒好きな人間なのは分かるが、節制をしなければならない。

晩年の川上徹太郎と吉田健一は、週1回、金曜日に誘い合わせて、徹底的に飲む代わりに、その他の日は健康を慮って禁酒していたらしいが、私にはそんな真似はできない。酒が日常生活に深く浸透しているからだ。禁酒すると、コミュニケーションに支障が出てくるだろう。

いま、温かいお茶を飲んでいるが、紅茶、緑茶を飲むのもいいだろう。水分の摂取も進み、痛風が緩和されるだろう。もう、私も若くないのだから、体調管理に努めたい。

セントポールの隣り

昨日のミサの後、誘い合って、「セントポールの隣」で昼食会を行った。食事中は笑いがたえず、教会の生活はいいな、と改めて思った。カール・バルトは「信仰とは出会いである」「私は一人ではない」と言ったが、その神学を体現することができたような気がする。とまれ、私は激辛スパゲティの大盛とビールを注文し、満たされた。また皆で行きたい。

tabelog.com

開かれた世界へ

文学者ライターへの後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、ようやく編集者ジャーナリストとして生きて行く覚悟ができたようだ。といっても、私の場合は与えられた原稿を編むのではなく、むしろ、自ら原稿を書くタイプの編集者であるし、そこに私の存在意義があると思う。文士の名残ではないかと言えばそれまでだが、私には作家の素質が極めて乏しいと見ているので、自身を表すのに言葉を使うことは少ない。ただし、小説は諦めずに書いた方がいい。

今は幸いにしてサラリーマンをやっているが、フリーに転じた時にどのように稼ごうか毎日思案している。自分の仕事(本を書くこと)と並行して、編集・執筆の業務委託を請け負って、糊口を凌ぐのが正しいように思える。飲食の仕事はその次に考えるべきだ。ちなみに今後、私が福祉の仕事に就くことはない。現代において福祉は切実に必要とされているし、これについて語り、書く必要はますます感じるが、実際に私が福祉の現場で働く必要はまったくない。私は4年間、老人ホームで介護をしてきた。その経歴と介護福祉士の資格だけで十分である(取材先で私が介護福祉士であることを告げると、先方が目の色を変えることが多い)。

もう少し詳しく、私が福祉の仕事に就かない理由を述べたい。多額の公費が投入され、医療と隣り合わせのこの業界は恐ろしく堅いのである。手堅く稼げる替わりに、思考と行動の自由が奪われる。そういう実感がある。もっとハッキリ言ってしまえば、クリエイティビティにとってマイナスである。取材に行けば分かることだが、政治と新聞、この二つの業界はマスクを着けている人がほとんどいない。話すこと、書くことに対して、オープンな態度の人が実に多い。編集者ジャーナリストを生業としている私は開かれた世界の住民なのである。

通勤電車

バーテンダーに転身しようか、そんなことを不意に満員電車の中で思ったが、思い過ごしということにして、意識の深層に押し込めた。介護福祉の記者は一見地味だが、私はけっして嫌いではない。4年間現場で働いていたから、私なりの課題があるし、何よりも介護というのは活字に移しても、喜怒哀楽の感情を含む、人間的な仕事なのだ。そこら辺のビジネス、テクノロジーの記者では得がたい充実感がこの業界にあると私は見ている。ゆえにフリーライターに転身した後でも、私は介護について書くだろう。必ずしも善いことばかりではないし、むしろ、その執筆の動機は怒りである。記事であろうと、文学であろうと、私は絶対に美談は書かないと決めている。

新聞の後はWEBで書こうと思うが、そこで私の知識、経験が生かせるかは微妙である。こうして、私は毎日、WEBに書き立てているし、その点慣れているが、印刷・DTPのキャリアもそれなりにある。介護そのものよりも有ると言っていいくらいだ。私がジャーナリストを続ける理由は、メディアに携わることによって、人間と邂逅し、関係が構築されるだけでなく、仕事そのものが楽だからだ。もちろん、忙しい時はあるし、修羅場はあるが、現場で介護をする苦痛と苦労に比べれば、本当に何でもないのである。

私の出エジプト記

新聞記者ジャーナリストをいつまで続けようか、と自問自答するが、「出来るだけ長く」というのが私の回答である。有難いことに会社では貴重な戦力の一人として認められ、重宝されているし、小説家ライターとして立つ前に、まずは皆の期待に応えたいと思う。しかし、私の新聞記者としての働きが微妙なのは、私の文学趣味のせいだと思われるが、そもそも文学趣味なければ、新聞・出版業界に居ないので、そこは自信を持っていい。白状してしまえば、文学とキリスト教がなければ、私は介護・福祉業界を脱出することはできなかっただろう。あの頃の転身の鮮やかさは、イスラエル民族の「出エジプト記」に似ている。「あの頃」と書いたが、私が老人ホームを脱してからまだ1年経っていない。けれども、ずいぶん長い道のりを歩いたと思うし、充実しているのか時間が経つのが凄く遅いのである。文学と宗教が私を救った。ゆえに、私はあの労働と病苦の日々と、それからの始まりアルファ終わりオメガとしての洗礼・堅信を常に記念/祈念しているのである。