存在様式

明らかにサラリーマンに向いていないと感じる。近頃は職場で笑うことが少なくなった。会社は笑う所ではないが、笑わない奴は仕事ができないと相場が決まっている。

入社1年で人脈と情報の連関つながりができたので、ようやく仕事ができるようになったが、このままでは私は仕事ができない人に成り下がるだろう。健康にも支障を来たすかもしれない。

年度末とは言わず、今、私が編集を担当している著者の原稿を仕上げた後は、潔く身を引いた方がいいのではないか。私は大手の新聞記者を尊敬しているし、それなりに過酷な現場で仕事をしていると思うが、サラリーマンとジャーナリストは矛盾する存在様式である。私は今、自分で自分を救う段階に来ている。

復活祭

3月30日には立教学院諸聖徒礼拝堂で聖土曜日礼拝を、3月31日には復活日礼拝に参列した。

2023年の復活祭イースターに洗礼を受けた私は、キリスト者としてようやく1年経ったんだな、とようやく実感が湧いてきた。その歩みは遅々としているし、あまり褒められたものではないが、私の人生は確実に新しい段階に入ったという自覚がある。

復活祭、特にその前日の復活徹夜祭に参加すると、洗礼を受けた頃、また、それに向かってひたむきに頑張っていた自分を思い出す。2023年の3月は、私はまだ老人ホームで介護をしていて、教会の聖餐ミサに与かるために、すべての希望休と有休を日曜日につぎ込んでいた。12月24日に有休を入れたら、25日も自動的に休みになったが、あれは上司の粋な計らいだったのだろうか。たぶん、私はすでにキリスト者として認識されていたと思う。

洗礼と堅信は私の死からの復活を象徴する秘儀であると同時に、それに至るまでの道程は出エジプトエクソダスそのものだった。主に導かれて私は老人ホームの奴隷的労働を脱し、言葉に仕える新しき人になった。復活祭はこの歴史を記念する大事な行事なのである。先日、教父に「兼子さんはお導きのある人だから」と言われて嬉しかった。主の召命に感謝したい。

復活日は同時に立教学院から香蘭女学校に異動される、マーク・シュタール司祭のお別れ会となった。シベリウス作曲の聖歌291番を皆で歌った。「われら再び相見えん」。

送別会

春は別れの季節であると同時に出会いの季節である。去る3月24日、日本聖公会・東京教区・環状グループで、聖アンデレ主教座聖堂に異動する卓志雄先生の送別会が行われた。私はチャペル会衆委員会の渉外担当ではないので、本来、出席は義務ではないのだが、「他の教会の人々と交われるし、懇親会ではお酒が飲めるよ」という名親の言葉に釣られて、去年の夏から参加している。仕事柄、いつもカメラを持参しているので、私は教会付属のジャーナリストのようである。

環状グループ協議会に参加して、ふだん接することのできない街場の教会の人々に出会うことは、多くの気づきを与えてくれる。私の怠慢から礼拝堂チャペル以外の教会に出かけることは少ないけど(その点、聖公会だけでなく、他の教派の教会にも足を運ぶ必要がある)、大学の礼拝堂は恵まれていると知ると同時に、近隣の他の教会の人々ともその恵みを分かち合わなければならないと感じる。将来、伝道師エヴァンジェリストとして活動するために、是非とも必要な修業の課程である(ただ飲み食いしているだけではない)。

阿佐ヶ谷聖ペテロ教会にて卓先生を囲んで

断定の措辞

昨日、ある児童文学作家へのインタビュー記事のゲラが上がってきた。それを素読みした後輩が言った。「兼子さんの思想が表現されていますね」こういう「コーナー」は普通の新聞記事よりも自由な文体で書けるので、自分の思考を率直に表現しやすい。ときどき「~である」など、断定的な措辞も使うことができる。要するに文学的な文章が書けるのだ。取材に協力してくれた先方の作家も原稿の内容に満足してくれたので、自信をもって世に送り出すことができる。その人は私の文章を「介護を経験しているから温かいですね」と言ったが、それは違う。言葉に仕えているから温かいのだ。

中年は寂しい

月曜日はだいたい四ツ谷の角打ち 鈴傳で取締役、DTPオペレーターと飲む。4割が仕事の話、その他6割が他愛もない雑談である。ジャーナリストとしての成長する上で、とても助かっているが、同年代の同僚との交流が乏しいのが寂しい所である。最初は彼等に物珍しい存在として見られたのか、飲み会に誘われたり、小旅行にも出かけたりしたが、いつしかそれも途絶えた。仲間外れにされたと言えばそれまでだが、私も彼等をジャーナリストとしてではなく、ただのサラリーマンと見なしているので、特に口惜しくもない。私がやるべきことは、いま目の前の仕事に勤しむことと、後に来たるべき仕事のために備えるだけである。四ツ谷は通過点に過ぎない。

しかし、悲しいことは、中年になると友達が居なくなることである。編集と伝道に努める私は絶えず新しい出会いに恵まれているが(世人が嘆く「出会いがない」生活とは無縁である)、それでも「君に友達は居るか?」と訊かれれば、一瞬、返答に困ってしまう。人は歳を取るごとに、一人、また一人と友達を失っていく。友達が居なくなっていく。その現実を認識し始めるのが中年という年頃である。会社の同僚はそれ以上でもそれ以下でもないし、教会の会衆は半分友達・半分同僚である(それだけでも恵みと思わなければならない)。中年は寂しい。だから、友達を大切にしなければならない。人生には一人の友達、一人の恋人が居れば十分である。

酒場のサマリア人

先日、10ヶ月ほど仲違いしていた友達および彼の職場の同僚と竹橋と湯島を飲み歩いた。竹橋ではアットホームな味と雰囲気が特徴の居酒屋で日本酒をイッパイ飲んだ後、大の男四人がタクシーに相乗りして湯島に移動。目当てのラーメン屋が閉まっていたので、寿司を食い、その後はゲイ・バーで遊んだ(大人しく水割りを飲んでいただけだが)。

湯島の街はお水の女の子たちが早春の夜気に震えながらも、元気に声掛けをしていて、完全にコロナ前の活気を取り戻したように見えた。友達と語らいながら路地を闊歩し、色とりどりの飲み屋の看板が目に入ってくるとわくわくしてくる。「君と一緒ならば、地獄の三丁目も楽しい」酒精に満たされた私はかつて絶交した友に言った。彼は破顔して応えた。

第三の場所サード・プレイスという言葉がある。家庭でも会社でもない、その人にとって大切な場所を意味している。私にとってそれは教会とそこに集う人々を指すが、酒場に連なる人々も含んでいる。キリスト教徒もいれば、キリスト教徒でない人もいる。教会は毎週の安息日に必ず通っているので、私にとって憩いの場所であると同時に、私を鍛え、才能タラントを伸ばす場所である。私は大学のチャペルが好きで、そこに属しているが、教会はまさに私達を養い、育む学校である。

さて、酒場はどうかというと、バー・カウンターの一席を自分の居場所だと勘違いすると、生活にいろいろと支障が出るし、それによる不幸と悲劇もたくさん見ているけど、酒場は教会と違って、多様な宗教、思想、性別、階級の人々が集う場所である。彼等と酒を酌み交わし、共に語らうことは、聖書の「善きサマリア人」を見出す過程だと考えられないだろうか。酒場の勘定は高い。しかし、それは寛容な心を育むための勉強料なのである。

水割りの愉しみ

ジン・トニック、ウイスキー・ジンジャーを経て、最近はウイスキー・ウォーター(ウイスキーの水割り)を飲んでいる。昔、バーボンの水割りを飲んで以来、苦手意識があったが、中年に入り、酒をゆっくり飲みたくなったこともあって、この飲み方を始めたら、案外美味しいことに気づいた。老人ホームで働いていた頃は栄養補給のために(同僚の影響もあって)、ビールばかり飲んでいたが、最近はそれ一辺倒では肥ってきたので、改めた次第。ジン・トニックも大好きだが、清涼飲料水は腹が膨れるので、最後はウイスキーの水割りに辿り着いた。ほんのりとウイスキーの味わいがするのがよい。優しい口当たりで徐々に酔うのも乙だし、胃腸や食道への負担も少ない。若い時分は開高健の「大の大人が水割りにして飲めるか」という言に共感して、ストレート(あるいはトワイスアップ)一辺倒だったが、身体が持たなくなった。中年に至り、私は水割りを発見した。

しかし、世間の嗜好は私とは別の所にある。平成を経て、令和に至ると、飲食店、特に居酒屋ではハイボール(ウイスキー・ソーダ)が主流である。これはこれで美味しいと思うが(特にレモンを効かせてくれるとよい)、食事に合わせたり(特に海の幸)、一人あるいは大切な人としっぽり飲む時は不適当だと思える。これは私の懐古趣味だろうか? そもそも「水割り」という言葉には昭和の響きがある。クリスチャンの私は基本的に西暦を用いているが、和暦、畢竟、元号でしか表現できない時代の雰囲気というものはある1。私はこの時代に馴染み切れないのではないかと思う。とまれ、ウイスキーが私の人生の相棒だと自覚した夜(朝)だった。


  1. ただし、近代の天皇制は、天皇の寿命を元号≒時代と同一視しているので、古代、中世で演じられたダイナミックな政治的ドラマは捨象され、時代と社会に対し、政治を否定する状況を強いているという、藤田省三の指摘を私は支持する。近年の日本の政治的・経済的停滞の原因は、国民の精神的弛緩と自民党政治にあると言えるが、元を辿れば、天皇制に帰着する。