水割りの愉しみ

ジン・トニック、ウイスキー・ジンジャーを経て、最近はウイスキー・ウォーター(ウイスキーの水割り)を飲んでいる。昔、バーボンの水割りを飲んで以来、苦手意識があったが、中年に入り、酒をゆっくり飲みたくなったこともあって、この飲み方を始めたら、案外美味しいことに気づいた。老人ホームで働いていた頃は栄養補給のために(同僚の影響もあって)、ビールばかり飲んでいたが、最近はそれ一辺倒では肥ってきたので、改めた次第。ジン・トニックも大好きだが、清涼飲料水は腹が膨れるので、最後はウイスキーの水割りに辿り着いた。ほんのりとウイスキーの味わいがするのがよい。優しい口当たりで徐々に酔うのも乙だし、胃腸や食道への負担も少ない。若い時分は開高健の「大の大人が水割りにして飲めるか」という言に共感して、ストレート(あるいはトワイスアップ)一辺倒だったが、身体が持たなくなった。中年に至り、私は水割りを発見した。

しかし、世間の嗜好は私とは別の所にある。平成を経て、令和に至ると、飲食店、特に居酒屋ではハイボール(ウイスキー・ソーダ)が主流である。これはこれで美味しいと思うが(特にレモンを効かせてくれるとよい)、食事に合わせたり(特に海の幸)、一人あるいは大切な人としっぽり飲む時は不適当だと思える。これは私の懐古趣味だろうか? そもそも「水割り」という言葉には昭和の響きがある。クリスチャンの私は基本的に西暦を用いているが、和暦、畢竟、元号でしか表現できない時代の雰囲気というものはある1。私はこの時代に馴染み切れないのではないかと思う。とまれ、ウイスキーが私の人生の相棒だと自覚した夜(朝)だった。


  1. ただし、近代の天皇制は、天皇の寿命を元号≒時代と同一視しているので、古代、中世で演じられたダイナミックな政治的ドラマは捨象され、時代と社会に対し、政治を否定する状況を強いているという、藤田省三の指摘を私は支持する。近年の日本の政治的・経済的停滞の原因は、国民の精神的弛緩と自民党政治にあると言えるが、元を辿れば、天皇制に帰着する。