BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

酒場のサマリア人

先日、10ヶ月ほど仲違いしていた友達および彼の職場の同僚と竹橋と湯島を飲み歩いた。竹橋ではアットホームな味と雰囲気が特徴の居酒屋で日本酒をイッパイ飲んだ後、大の男四人がタクシーに相乗りして湯島に移動。目当てのラーメン屋が閉まっていたので、寿司を食い、その後はゲイ・バーで遊んだ(大人しく水割りを飲んでいただけだが)。

湯島の街はお水の女の子たちが早春の夜気に震えながらも、元気に声掛けをしていて、完全にコロナ前の活気を取り戻したように見えた。友達と語らいながら路地を闊歩し、色とりどりの飲み屋の看板が目に入ってくるとわくわくしてくる。「君と一緒ならば、地獄の三丁目も楽しい」酒精に満たされた私はかつて絶交した友に言った。彼は破顔して応えた。

第三の場所サード・プレイスという言葉がある。家庭でも会社でもない、その人にとって大切な場所を意味している。私にとってそれは教会とそこに集う人々を指すが、酒場に連なる人々も含んでいる。キリスト教徒もいれば、キリスト教徒でない人もいる。教会は毎週の安息日に必ず通っているので、私にとって憩いの場所であると同時に、私を鍛え、才能タラントを伸ばす場所である。私は大学のチャペルが好きで、そこに属しているが、教会はまさに私達を養い、育む学校である。

さて、酒場はどうかというと、バー・カウンターの一席を自分の居場所だと勘違いすると、生活にいろいろと支障が出るし、それによる不幸と悲劇もたくさん見ているけど、酒場は教会と違って、多様な宗教、思想、性別、階級の人々が集う場所である。彼等と酒を酌み交わし、共に語らうことは、聖書の「善きサマリア人」を見出す過程だと考えられないだろうか。酒場の勘定は高い。しかし、それは寛容な心を育むための勉強料なのである。