師走に向けて、部屋を大掃除している。
まず、書斎の床に雑然と積んである、本とCDを寝室に移動した。そう、ただ移動しただけだが、いずれは本棚に収納するつもりだ。地面に近いからだろうか。床に積むと、紙だろうが、プラスチックだろうが、痛むのがはやい。人間だって寝てばかりいると廃人になってしまう。海と地は生命の源である。生命はそこに帰っていくのではないか。人間は人工の技術を用いることで、不用意にそこに近づかないようにしてきた。呑み込まれるからである。話が脇道にそれた。積読はイケナイということである。
書籍をどかして、空いたスペースには、丸テーブルを置いた。もともと、仕事、勉強に使用していた机とは、サイドテーブルを挟んで、L字型に並んでいるので、企業の社長のオフィスのような外観になった。丸テーブルの上にはLinuxをインストールしたラップトップPCとデスクスタンドを置いた。メインのPCはWindowsを使っているのだけれども、ひさしぶりにLinuxを使えてうれしい。このブログもLinuxのPCで書いている。マルチメディアの対応はWindowsが強いけど、研究、開発に関しては、Linuxが最前線を行っている。私は執筆にはGedit、Kateなど、組版にはLaTeXを使っているので、GNUのソフトウェアを使える環境は絶対に必要なのだ。ちなみに、私はあまりMacは好きではない。出版社でDTPをしていた頃にMacの操作を覚えて、統一されたシンプルな操作感、手になじむキー配列、美しいフォントに感心したけれど、どうしてもMacWorldの住人にはなれなかった。スティーブ・ジョブズが想像しているユーザー体験を押しつけられているように感じたからである。その点、WindowsやLinuxは統一されていなくて、未完成で、カオスな部分が多いけれども、そのぶん、ユーザーに使い方を任されているように感じている。カスタマイズ性が高いのだ(最近のWindowsあるいはMicrosoftは、Mac、Appleの方向に接近してきているけれど……)。
部屋の掃除をしていてわかったことがある。それは、私は狭い部屋に住めない、ということである。いま2LDKの物件に住んでいるが、書斎と寝室を分けないとだめである(この物件に住んで4年たつが、ようやく、両者が分離してきた)。20代半ば、一人暮らしを始めた当初、1Kのすさびしい物件に住んでいた頃がなつかしい。隣の電子レンジをまわす音が聞こえてきたっけ。感慨に浸っている場合ではない。結局、私はその清貧そのもののような部屋から、新しい可能性を求めて出ていったのだ。故郷の埼玉を去って、憧れの東京に来たのだ。部屋は狭いよりも広いほうがいい。可能性が増えるからだ。書斎の中央に丸テーブルを置いたら、部屋が広く、明るくなったように感じた。太陽の光を受けながら、仕事ができるようになったからだ。ニールセンの交響曲第3番「広がり」を聴きたくなった。