東京と千葉の二重生活を決意したのに、近頃は夢の中でも会社のナース・コールが鳴りひびく……。睡眠中も私は介護しているのだ。資本と労働による生活の一元化ないし全体主義化が進行している。自由主義と多元主義を標榜する私にとって、これは由々しき事態である。
今まで私は睡眠にこだわってきた。確かに、鬱病、躁鬱病、分裂病など、主要な精神疾患を診断する分水嶺は睡眠時間にある。これらが発病するとき、睡眠時間が極端に短くなるのだ。「最近、眠れていますか?」と、精神科の問診で必ず訊かれる。睡眠時間の延長が図られる。そのために処方される抗精神病薬の効果が鎮静、催眠であるのは理屈に適っているのだ1。私はこの薬を薬学における最大の発明だと考えている。(単極性)鬱病の治療に使われる、気分を持ち上げてハイにさせる抗鬱薬は、私から見れば傍流に過ぎない2。
どうして私は睡眠にこだわるのだろうか。単純に眠るのが好きなのかもしれない。何も考えずに、無心になって
私は今まで眠るために酒を飲んできた。ウイスキーやジンなどの蒸留酒を飲んできたのはそのためだ。一気に血中アルコール濃度を上げてくれるのだ。しかし、眠るために飲む酒ほど不味いものはない。しかも、アルコールは覚醒と鎮静を同時にもたらすから、深酒しても眠れる保証はどこにもない。混濁した意識が不安気に心象風景を彷徨うのだ……。
これからはただ、気持ちよくなるために酒を飲みたい。
躁鬱と不眠は私の宿痾である。しかし、裏を返せば、もともとショートスリーパーの体質なのだろう。「気を付けて、目を覚ましていなさい3」。他人よりも覚めている時間が多いことを感謝しつつ(その分、苦しみも多いが)、人として、短い一生を送りたいと思う。