当世学生気質

10年ぶりに母校の講義と演習ゼミナールに参加した。

講師は明治学院大学 国際学部の浪岡新太郎教授。先生は私達が大学1年生の時に立教大学の助教1を務めていらっしゃった。その後、外務省の勤務を経て、前記の大学に就職された。私の政治学の恩師の一人である。

私が出席した講義は〈グローバル社会での平和構築〉。全学共通カリキュラムという、昔の一般教養課程に相当するもので、受講者の大半は1、2年生だ。そこに35歳のオジサンが交っているのだから苦笑してしまう。

実際に講義に参加して驚いたことがふたつある。

一、学生が真面目である。授業中、皆、静かに講義を聴いていて、私語をする人、居眠りをする人はほとんどいない。私が学生の頃はそれと真逆の態度で講義に臨んでいたので、本当に先生達を困らせた。自分も含めて当時の学生は、高度経済成長を経てバブル経済で頂点に達した、レジャーランド化した大学のイメージを引きずっていたのかもしれない。私達の置かれた環境は本当はもっと過酷だったにもかかわらず——現実認識が甘かったのだ。それに比べると、現代の学生はもっとちゃんとしている。時間と学費を掛けた丈、学ぼうとする意欲がある。自分達の住む世界は生易しくないという事実を、感覚的に、学問的に理解しているのかもしれない。

二、パソコンが普及している。実に三分の一以上の学生がパソコンでノートテイクをしていた。これは驚いた。講義の風景が違うのである。私達が学生の頃は、1人、2人のモノ好きがタイピングの音が響かぬよう、教室の片隅でカタカタいじっていた程度である。隔世の感がある。初等教育だけではない、高等教育、ことに大学においても、マイクロソフトとアップルの営業戦略は奏功した訳だ。それはさておき、私は断然手書き派である。第一、私のタイピングの打鍵音はうるさいので、周囲に迷惑をかける。しかし、それ以上に、人はデバイスを操る(遊ぶ)ことに夢中になって、講義に集中できないのではないか? 人の話を画面越しに聴くのは難しいのではないか? と、老婆心に似た余計なことを考えながら、私は緑の手帳〈野帳〉に鉛筆でメモを取っていた。これは新聞屋でライターをしていた頃から続く、私の昔気質のスタイルだ。

自分が歳を取ったこと、しかし、晩学の楽しみを噛みしめつつ、ゼミの終了後、先生と私と学友は池袋のふくろで乾杯したのであった。

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  1. 昔の助手のような地位。テニュアではない、任期付きの職位。