歴史的文書

朝、立教大学チャペルで聖餐式。広田勝一チャプレン長の『旧約聖書』に関する講話を聴いていると、『詩篇』の節番号が私の手持ちの文語訳『聖書』と相違していることに気づく。最初は先生がレジュメに転記するのを間違えたのかなと思っていたが、家に帰って、先日購入した、聖書協会共同訳の後記を読むと、新改訳/新共同訳/聖書協会共同訳の『旧約聖書』の章番号と節番号は、文語訳/口語訳と相違している旨を記載してあった。人類史に始まる歴史的文書なのにいいのか、と思うが、たぶん底本としたヘブライ語版が違うのだろう(その点、『新約聖書』が底本にしたギリシア語版は変わらないのかもしれない)。聖書学について、私はド素人なので、これ以上何も言うことはない。しかし、確かなことは、当今の教会の礼拝が聖書協会共同訳で執り行われるとしても、私は個人的に文語訳『聖書』を愛読し続けるということである。単純に古語が好き、というだけでなく、括弧の中の句読点の打ち方がまことに気に入っているのである。古語で書かれているのに、現代の小説のように読めるのである。そんな些細な違いに拘るなと言われそうだが、少しの違いは大きな違いなのである。

話は変わるが、このブログ BOOKMANは半年前から毎日更新を旨としてきたが、その方針を放棄しようと思う。転職に伴い立場が変わることが大きな理由だが、毎日更新することで、徐々に内容が薄まってきたことにも胸を痛めていた。本当はコメント欄を設けて、読者の皆様と交流したいが、この頃、心ない人物からのスパムが増えてきたので、撤去してしまった次第である。また、ブログを書くことで、築いた人間関係もあるが、壊した人間関係もある。公衆に向けて、実名を曝して、文章を公表することは、楽しいことばかりではないということが、痛みをともなう行為おこないであることがよく分かった。それがブログを書き続けてきたことによる本当の成果だろう。

現実の人間関係のトラブルを防ぐために、ペンネームないしハンドルネームを使うことも、特にネット空間では推奨されるのかもしれないが、それは私の気質に適っていないので、最初はじめから選択肢から除外している。トルストイが文書に著名する時、「レフ・トルストイ」と力強く記したことを思い出せ。芸術というわざによって、神と世界に愛される人物は、本来の名前が相応しいのである。

と、今回はいろいろと泣き言を書いてしまったが、このブログは時間と体力さえあれば、頻繁に更新することは変わらない。私の文筆活動のホームページなのである。