情熱冷めやらず。昨夜遅くまで、ファミリーマート西小岩店の軒先で、音楽家と学生、そして
聖餐式が終わったあと、会衆委員のSさんと歓談した。「Zoomによる『聖書』の読書会、もう2年くらい続けていますけど、兼子さん、そろそろ司会を担当なさらない?」
「来年度、転職して土日が休みになりますから、今よりも教会に参加できると思います。そしたら、洗礼も受けたいと思っています」
「それは絶対?」
「そう、絶対です」
「今まで何をしていたの?」
「荒野で悪魔に試みられていたんですよ。来年は個人で執筆、会社で編集の仕事をします。出版業界に返り咲くんです。『聖書』の研究が仕事にも役立つと信じています」
「頼もしいわ。あなた、強そうだからね」
洗礼——それを受けることは私の中で初めから決まっていたが、問題はどこで受けるかにあった。カトリック、プロテスタント、アングリカンのいずれかで迷ったし、同じアングリカンにしても洗礼を授ける教会、司祭によって、その後の信徒生活が大きく左右されることを知っていたからだ。
結局、立教大学の人々が私を受け入れた(市川の人々も私を歓迎してくれたが)。学問を修めた学び舎で、私は
帰路、東武デパートの煙草屋で、手巻煙草と刻み煙草、そして、シガリロを購入する。午後、自宅の書斎でウイスキーを飲みながら、煙草を巻いたり、吸ったりする。実際に自分で手を動かすことで、ようやく煙草の本質に触れたような気がする。至福の刻。