昨日の歌会の終了後、相原かろさんに「この作品のダンディズムは兼子さんのだと思った」と言われたのは嬉しかった。作品に個性が表れている。私の生活様式が文体にまで昇華されてきている。また、別の方から「詠みぶりが古風だ」と指摘を受けた。これもよろしい。文語訳『聖書』を読み続けた賜物だ。現代の下手な口語短歌に靡かない。私はクラシックが好きなのだ。
島地勝彦『迷ったら、二つとも買え!』を読み終えた。ライター/バーマンの著者は、その豪華な暮らしぶりのゆえに、けっこう高飛車な人なのではないかと思っていたが、実際に読んでみると、その語り口は優しく、大人あるいは老人として、若者を導く姿勢が感じられる。文章も現代には珍しい、一本筋が通った柔らかさを持っている。開高健ゆずりの誇張した表現が多いのかな、と思っていたが、そんなことはない、常識的な文体である。
しかし、著者の浪費生活には、私はどこまでも付いていくことはできなかった。高価なシングルモルトウイスキーは確かに美味いが、安価なブレンデッドウイスキーも捨てたものではない。毎日気軽に楽しめる手軽さがある。そもそもウイスキーの敷居をそんなに上げたら、世界からウイスキーファンがいなくなってしまう。大衆的な安酒にも存在価値を認めてほしい。その点、私はWHITEを飲みながら、みそ汁を啜っていた、田中小実昌の肩を持ちたい。
食事も私はぜんぜん贅沢しないので、というか拘りがないので、島地さんの流儀に合わせることができなかった。私が独身のためだろうか、食事はなるべく手早く済ませたいのである。私は酒にはこだわるが、食にはぜんぜんこだわりがない。むしろ、給された食事に対して、つべこべ言うのは卑しいことだと思っている。ゆえに、「納豆御飯が究極の料理だ」と豪語する、嵐山光三郎の味方をしたいのである。豪華な料理は美味い。しかし、貧乏な料理にも確かに味があるのである。それでは文化が育たない、と言われてしまえば、それまでなのだが……。
と、批判的なことばかり書いてしまったが、「私は浪費家の道を極めるためには、やはり独身でなければ無理だと思っている」と書く、島地さんの文章は血が滲んでいると思う。なぜなら、島地さんは結婚され、所帯を持っているのだから。人生は悲しく、儚い——まさに「知る悲しみ」である——それを感得した人間が初めて、浪費という極道の道を歩むのだろう。浪費は巡礼の旅に似ている。その道程はまだ始まったばかりだ。