TankaWriter

最近、短歌を詠んで(読んで)いない。

文章を書く量、アウトプットの総量は増大しているし、毎日、文語訳『聖書』を読んで、以前に比べて、古語に慣れているのに、それでも書けない(書かない)。

してみると、短歌が私にとって本当にふさわしい文芸なのか、考え直してみたい。人はいかにして歌人になるのだろうか?

オーソドックス歌人

小学生、中学生などの幼年期から親しんでいた、というタイプである。自分で短歌を選択したというよりは、すでに家庭に御歌が充溢しており、自然に短歌という文芸に親しんできた人である。そのほとんどが文化資本、経済資本の高い家庭で育っている。彼等は歌をハビトゥスとして実践している。生活(人生)に歌が存在するのは当たり前なので、歌を手放す、断念するという選択肢は考えられない。幼児洗礼を享けた、カトリック(オーソドックス)のごとき人である。

プロテスタント歌人

物心ついた頃に短歌を始めた人である。あえて自分で短歌という文芸を選択した人である。大学生、社会人に多い。もちろん、短歌という古くて新しい文芸に挑戦するくらいなのだから、もともとその人が育った家庭も、文化、文芸に満ち溢れているのだが、御歌が自然に遍在する訳ではない。むしろ、小説、論文など、散文が多い印象である。このような家庭に育った人は、短歌を始めるのは自明ではない。しかし、知的好奇心が旺盛な人が多いので、おのずと短歌を引き寄せるのである。私が歌を選び、歌が私を選んだ。再洗礼を享けた、プロテスタントのごとき人である。

私は確実に後者である。私の両親は短歌を読まなかったが、小説を読んでいたので、歌はなくとも物語は存在したのである。思えば、短歌結社での私のきまりの悪さは仕方ないことだった。私は詩歌の人、歌人ポエットではなく、文章の人、文人ライターだったのである。けれども、ときどき歌人タンカライターになるのもいいだろう。

今後、小説、評論などの散文を本業にして、短歌などの韻文はあくまで余技として、文士ライターの私は世界と切り結んでいきたい。