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今年37歳。最早、中年である。

先日、健康診断の結果が出た。高血圧。高尿酸。脂肪肝。それに躁鬱病の持病があるから、心身ともに不健康そのものである。多分、介護職をしていた4年間で、私の健康は悪化したのだろう。肉体労働に従事することで、躁鬱病は寛解したが、その代償は大きかったと言わざるをえない。特に最後の1年間は荒み切っていたので、そこで健康を損なったのだろう。

しかし、省みれば、肉体の健康を犠牲にして、精神の健康を手に入れたのではないか。私の心は4年前と比べて、ずっと健やかだ。平和を手に入れるためには、何かを犠牲にしなければならないのかもしれない。

当然のことだが、大学の同級生も悉く中年になった。仕事のこと。家族のこと。病気のこと。等々……。いろいろなことを話す。学問の話はほとんどしないが、それでも稀に読書について話すことがある。

私は一見、読書家のように見られているが、実際は大して読んでいない。毎日『聖書』は読んでいるが、それだけと言っても過言ではない。今の私の知識は学生時代の勉強と現在の信仰から成り立っている。そう思うと、今でも毎週、大学のチャペルに通い続けていることは、本当に有難いことだ。立教大学は私にとって、永遠の学校であり続ける。

話が少し逸れた。そう、読書についてだが、中年を過ぎると、本を読む力が衰え、嘆く人が多いことに気づく。生活の忙しさもあるのだろう。しかし、じっくり腰を据えて、本の頁を捲り、行に目を走らせることができない。学生の頃に比べて、読書の体力が落ちているのだと思う。

特に私の場合は躁鬱病という大きな病気をしているから、その心的外傷トラウマが大きい。病中は頭が混乱して、ほとんど読めなかった。私が出版業界を去ったのは、ちょうどその頃のことである。私の場合、病気の後遺症、加齢、生活の慌ただしさなど、いろいろな要素が噛み合わさって、本が読めなくなっているのかもしれない。

しかし、たとえ読めなくても、書くことはできる。頭を動かすことに疲れたら、手を動かせばいいのだ。ライティングはスポーツである。私にはヴァイオリニストの友達がいるが、以前、「君にとって、ヴァイオリンはスポーツでしょう」と喝破したことがあった。執筆が運動であれば、読書は休息である。その円環を生きるのが文人なのだろう。