今朝、立教大学のチャペルで、マグダラの聖マリア祈念聖餐式を挙げた。司式はトーマス・プラント先生。アコライドは茅ケ崎さん。会衆は私一人だったが、こんなふうに少ない人数で、静かに祈りを捧げるのもいいかもしれない。
その後、小岩の自宅に帰り、Zoomで聖書の勉強会。モニタ越しにプラント先生と再会する。この頃の先生は忙しい日々の中で、なんとか時間を工面して、研究活動を再開しているとのこと。嬉しく、喜ばしいことだ。そして、励みになる。多分、先生にとって研究は祈りにも似て、リフレッシュする時間なのだろう。
2年前の私自身を思い出す。当時の私は老人ホームで介護労働をしながら、シェルドン・ウォーリン、南原繁、そして、聖書などの政治哲学の文献を読んでいた。あの一人の静謐な時間は私にとって、文字どおり復活を意味していた。その後の私の進路はまさしく神に導かれていたと言っても過言ではない。
しかし、いまはどうだろう。聖書は毎日読んでいるが、明らかに探究心が失われている。勤め人の日々をこなすのが精一杯で、まったく研究していないのだ。堕落している、と自分でも思う。大脱出はすでに終わった。その後の普段の暮らしを整えることが大切だ。
私の中の文学趣味を減らして、再び神学・政治学の研究に向かおうと思う。18歳の頃の気持に戻るような感じだ。学部3年生の頃、中央大学の川原先生のゼミにお世話になったが、聖書とプラトンの知識のみで議論を進める私を、先生は瞠目して眺めていた。