BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

隠遁のススメ

よく隠れる者はよく生きる。

ルネ・デカルト

2024年9月30日、私は介護福祉の専門新聞社を退職した。その後は他社に転職したり、生活のためにアルバイトをすることもなく、自宅で読書三昧の生活を送っているが、今回はその中で得た気づきを率直に綴ってみたい。

反省

会社を辞めて一番よかったことは、自分を見つめ直す時間を確保できるようになったことである。それまで世間の大多数の勤め人と同じように、日々の業務に忙殺されて、己を省みることができなかった。換言すれば、神と向き合って来なかった。神と己の関係を糺して来なかったのである。私の実存は存在忘却の状態に陥っていたと言わざるを得ない。

新聞社のオフィスでは上司・同僚と机を並べて、仕事をしてきたが、8時間の会社勤めは私に相当の負担を強いた。夜間、不眠症で約3時間しか眠れなかったので、休憩時間は机に突っ伏して寝た。惨めだった。独立した暁には布団で寝たいと強く願ったのはこのためである。最後の会社勤めは自身のオフィスワーカーとしての不適合を再確認し、失敗に終わった。場末のオフィスビルの一角に押し込められて、気乗りのしない仕事に時間と労力を費やせるほど、人生は長くない。

退職後、持ち帰った仕事(?)を片づけた後は、自宅で読書中心の生活を送っている。読み物は聖書、哲学書、文学書、一般向けの精神医学書などである。神学書が含まれていないが、まだ時が来ていないと思っている。しかし、会社を辞めたこと伴う最も大きな変化の一つは、本を読めるようになったことである。活字を目でスムーズに追えるようになった。学生時代を超える理解と速度である。かつて、躁鬱病で読書と執筆の力が一気に落ちたが、日夜、読み書きを続けることで、病前を越える水準にまで回復した。その間、いろいろな書物を読んだが、枕頭の書は聖書であった。病を得、癒す日々の中で、私は神の御言葉を聞くことを覚えた。

治癒

自分を見つめ直す日々を送る中で、私は今まで目を背けてきた、己のアルコール依存症の問題にメスを入れ始めた。

私が自ら酒を飲み始めたのは20代後半からで、躁鬱病と不眠症に苦しめられ、その症状を鎮めるために自己治癒的に用いたのがきっかけだった。毎晩、ウイスキーをショットグラスで2、3杯飲んでいたが、今見れば可愛いものである。当時、出版社を渡り歩いていたが、出版業界そのものに飲酒を奨励する風潮があった。編集者、特に文芸編集者はそれなりに酒が飲めなければ仕事にならなかったし、事実、私が尊敬する優れた編集者は皆、酒飲みだった。彼等は几帳面ではないが、創造的クリエイティブだったのである。

躁鬱病の悪化に伴い、私は出版業界を離れ、職業訓練を経て、特別養護老人ホームの介護職になった。ここで酒の量が一気に増えると同時に、煙草の味も覚えた。早番・遅番・夜勤を交互に繰り返すシフト勤務。昼間に眠るために飲む多量の朝酒。30代半ばにして、私はアルコール依存症になっていた。止めることは困難だった。周りが飲んでいたからである。医療・福祉業界は飲酒・喫煙率が高い。人の命を預かるプレッシャーと24時間の対人サービスのストレスが非常に大きいからである。特にコロナ禍の時は凄かった。世間は「エッセンシャル・ワーカー」として持て囃したが、実際は市民社会が周縁で低くされている人達に負担を押し付けただけである。国家あるいは法人が医療・福祉職に禁酒・禁煙を押し付けてきた暁には、大量の離職者が出るだろう。もしかすると、罷業ストライキを起こすかもしれない。

介護福祉の専門新聞社に転職した後も、私は惰性で酒を飲んでいた。毎週月曜日の終業後、四ツ谷の鈴傳で、取締役、DTPオペレーターと飲んでいたが、飲酒と社交が新聞記者としての成長を促したのかは正直分からない。その内、編集部で虐めに遭い、仕事と存在の価値を剥奪されることが続いた。酒の量も増えて、朝酒をすることもあった。「このままでは死んでしまう」安月給と引き換えに命を削る必要はないと判断し、誰にも相談することなく、あっさり辞めてしまった。

退職して数日後の朝方、鬱で布団から起き上がることができなかったので、禁酒をすることを決意した。アルコールは躁鬱病に良くないことがようやく分かったのだ。10月9日から禁酒を開始。同月12日の友人のワインパーティまで我慢した。禁酒1日目は飲酒欲求を強く感じ、2日目には焦燥感、抑鬱などの症状が現れたが、3日目には非常に快活、元気になった(やや躁転したかもしれない)。禁酒の間は抗精神病薬と睡眠薬を飲んで、7時間の睡眠時間を確保することができた。胃腸の調子も良く、財布にも優しい。完全断酒だと仕事と社交に差し支えあるので、今後、飲酒の機会は週2~3日にとどめたい。大斎節の間は完全禁酒に挑戦するのも楽しいかもしれない。

会社を辞めて、世間から隠れることで、自身の惨めな姿をようやく見つめ直すことができた。これからは意志を堅く保ち、神の御心に適う生活を心がけたい。