福祉レボリューション

第34回 介護福祉士試験に合格した。受験資格には3年間の実務経験が必要だから1、私は叩き上げの一人前の介護士として認められたことになる。私は介護の専門家になったのだ。

思えば3年前、厚生労働省(ハローワーク)の職業訓練プログラムで、介護初任者研修を受けたのが始まりだった。それまで出版業界で働いていた私はキャリアの継続に挫折して、これから先どう生きていいのか途方に暮れていた。飲食業、バーテンダーに転身することも考えていたが、当時の私は酒場に顔を出すことも、飲み歩く習慣もなかったので、ただ酒が好きなだけでは勤まらないと観念して、別の方向に転じることにした。ただし、オフィスワーク、デスクワークで心身の調子を崩していたので、なるべく身体を動かす仕事がしたい、と思っていた。すると、介護、介護士が選択肢として浮上してきた。当時、付き合っていた女性は「崇志くんが介護するなんて、もったいない」と言ったが、私は巨大な体躯を持て余していたので、少しも惜しくはなかった。確かに、ホワイトカラーからブルーカラーに降りることは経済的、社会的な下降を意味するかもしれない。もっと俗な言い方をしてしまえば経歴キャリアきずが付くかもしれない。しかし、危機の時、みずから進んで降りる勇気のなさに、私は中産階級の懦弱を見ていた。それは本当の意味で知識人とは言えない。日本の市民社会の欠陥は、案外こんな所にあるのかもしれない。

話が逸れた。今後の課題はこの資格を何に生かすか、どんな仕事をするか、ということだ。

確かに、超高齢化社会において介護の求人はいくらでもある。職にあぶれることはないだろう。けれども、それだけでは不十分だ。私は仕事に対して夢や希望を持ちたい。実はけっこう仕事師なのだ。

次の目標は精神保健福祉士(MentalHealth (psychiatric) SocialWorker)になることだ。精神科のソーシャルワーカーである。この職を得ることで、私は自分を含めた精神病者、精神障害者を救済したい。かつて出版社の上司と先輩が、私に記事の見出しのつけ方、紙の都合の仕方などを教えてくれて、のちに私にライターとして独立を励ましたように、今度は並行して福祉のキャリアを育てたい。かつて、ヨーゼフ・シュンペーターは『経済発展の理論』の中で、企業家は異なる事業を組み合わせることで、技術革新イノベーションを生み、経済成長を促すと主張したように、私は文筆と福祉を組み合わせて、革命レボリューションを行いたい。ライターとソーシャルワーカーの仕事を通じて、私は世直しをしたい。これは極めて政治的な企図プロジェクトである。


  1. 介護福祉士養成校の卒業生、卒業見込生を除く。

場所と才能

どこに住めば仕事ができるのか? 収入が増えるのか? 才能が開花するのか? 30歳の頃の私はそのような現金な問いをえんえんと繰り返していた。

経済学や地理学、あるいは地政学の本に感化されたのではないか、と思われるかもしれないが、私の場合は文学だった。当時、〈塔〉という短歌の結社に入っていて、毎月1回(日)、浅草橋の中央区産業会館で歌会を開催していた。所沢の下宿を出て、そこに参加する中で、私はそのような歌を通じた社交が、歌人ないし文学者を育てるのではないかと漠然と感じていた。中村真一郎は『色好みの構造』の中で、文学の秘訣は「孤独ならざる社交生活」と看破しているが、当時の私には、先生とライバルが身近に存在し、恩寵、嫉妬などの感情にたびたび見舞われることになった。本当に苦労したのは、健康的、経済的理由で、結社を離れて、一人で書いていたその後の3年間であるが、そのことについては、ここでは深くは触れない。ただし、孤独が私を鍛え、ブログという個人的なメディアが私を支えてくれたのは確かである。孤独なのに孤独ではなかった。孤独は私の原点、アルファでありオメガである。

住む場所と仕事、そして才能について、いたく考えさせられたのは、リチャード・エルマン『ジェイムズ・ジョイス伝』を読んでからである。小説家、詩人のジェイムズ・ジョイスは、アイルランドのダブリンに生まれ、ローマ、チューリッヒ、パリと変遷し、最後にチューリッヒで没した。ここまで書いて分かることだが、すべて大都市である。ジョイスは生粋の都会っ子シティボーイであった。彼の住んだ街と作品は関係している。街の人々は彼の才能を見出し、彼の才能を育てた。作家と文学青年の次のようなくだりがある。

文学青年「どうして私にこんなに親切にしてくれるのですか?」

作家「私が友達を作るのは目的があるからですよ」

文学青年「あなたは冷たい人間ですね!」

作家「おやおや、私に感情がないとは!」

場所と才能の相関・相乗関係について、私が漠然と抱いていた予感を、実証的に証明してくれたのは、都市社会学者のリチャード・フロリダである。都市には人口と才能の集積効果があり、それによって技術革新や経済成長がもたらされるというのだ。人間に、社交的、内向的、あるいは開放的、閉鎖的、陽気、陰気など、多彩な性格があるように、都市にも独特の性格がある。人々は自身と似た都市に惹きつけられる。両者の性格が一致することで、人間と都市は奇跡的な成長を遂げるのだ。ことに経済成長に関して有意な性格は(経験の)開放性、すなわち好奇心、進取の気風、こだわりのない社交性である。フロリダによれば「広域東京圏」はこれに該当するのだそうだ。私は今、千葉で働いているが、そろそろ東京に帰還したい。私は東京を必要とし、東京は私を必要としているのだろうか? その趨勢を見極めたい。

小説の生理学

花の小説家

吉行淳之介について、このブログでも何度か書いているが、彼の作品について書くのは、今回が初めてである。彼について言えば、私の中で或るイメージが先行している。NHKの連続テレビ小説『あぐり』(1997年)である。

左記のドラマは、美容師の「あぐり」を主人公にして、「望月」一家の影像を映しているが、モデルはまぎれもなく「吉行」一家である。小説家/ダダイストのエイスケと美容師のあぐりの夫婦は、大正、昭和の時代において、最先端の夫婦だった。彼らの子、淳之介(小説家)、和子(女優、随筆家)、理恵(詩人、小説家)がそれぞれ芸術の道を歩んだのは当然のことだと思う。吉行の家には花がある。終戦直後、淳之介は田舎の女学校の講師を勤めていたが、数ヶ月で辞めてしまった。間延びした青臭い女学生の顔を、毎日教壇から眺めるのに耐えられなかったらしい。退職に際して、数人の教え子が彼に花束を贈呈したが、彼はそれをわざと学舎に置き忘れた。その後、彼は大学を辞めて、雑誌記者に転じた。処女作『薔薇販売人』を書いたのはその頃のことである1

肺病と作家

1954年に芥川賞を受賞した当時、淳之介は千葉県佐原市の結核療養所 清瀬病院に入院していた。結核菌に侵食された肺の成形手術を受けるためである。吉行淳之介にとって、作家としての出立は、肺病の罹患と無縁ではなかった。彼はそれまで、同人雑誌で小説を書いている頃から、自分の作風、作品を書くペースは、職業作家に向いていないと自覚していたが、状況が彼を雑誌記者から小説家に変貌させた。結核で肺を病んだことにより、普通の勤め人の生活、サラリーマンの生活を継続することが難しくなったのである。死病としての結核に罹患することは、サラリーマンの死を意味した。それは同時に市民生活の終焉も意味したのである。短篇『漂う部屋』には次の挿話が記されている。

投書の主は成形手術を受けた女性である。女性は郷里の町に帰って療養生活を続けることになったので、ある日銭湯に行った。蛇口の前に坐って躰を洗っていると、隣に坐っている中年の夫人がじろじろ彼女の傷痕を眺めていたが、急に身をしりぞけて、

「こんな日に、お風呂へ来るのじゃなかった」

と、大きな声で言った。すると、その声が合図ででもあったかのように、浴場中の人々が一斉に立上って、彼女のまわりにはにわかにガランとした空間ができてしまったそうだ。

湯槽に浸っていた人々までが総立ちになり、どんどん浴場から出て行ってしまい、ついに彼女は一人だけ広い流し場に取り残された、というのである2

たとえ、肚の中では激しい怒りを感じていたとしても、軽妙な文体によって、ごく自然体に書けるところが、彼の文学の真骨頂、その魅力なのであるが(彼が都市生活者であることと無縁ではない)、それ以前も勘付いていたことであるが、死病に罹ることは、私と彼等の生理的相違を際立たせた。この絶望的認識が彼をして娼婦の探求に誘ったのではないか。そして、彼女達の小説を書かせたのではないだろうか。


  1. 植物、特に花は、吉行淳之介の創作のモチーフである。

  2. 吉行淳之介「漂う部屋」『吉行淳之介全集 第1巻』(新潮社、1997年)256頁。

巴里の憂鬱

人はなぜ街に来るのか。また、人はなぜ街を去るのか。街は古今東西、人々が往来し、際会する場所であり続けた。数多あまたの世界都市の中でも、パリはひと際、その役割が顕著だった。この共和国の都は、世界の中心であると同時に、世界そのものであった。田舎からパリに出ることは、世界に出ることを意味した。 エンリーケ・ビラ・マタスも、その一人である。彼は1974年、文学修業のために、故郷のスペイン・バルセロナを出て、この世界の首都にやってきた。彼はそこでマルグリッド・デュラスのアパートに起居しながら、人々(特に文学、芸術を生業にする人々)の絶望と希望を目の当たりにすることになる。『パリに終わりはこない』は作家/芸術家の彼/彼女たちのドキュメントである。

その一方で、絶望感にひたっている振りをしているうちに、本当に絶望するようになり、あらゆることに希望が持てず、未来が闇に包まれているように思えはじめた。以前、自分の青春を暗黒の絶望と呼んだことがあったが、それによく似たものになってきた。そうした絶望感——見せかけだけの時もあれば、時にはまぎれもない絶望感に襲われることもあった——はパリで暮らした2年間私のそばからつねに離れることのない、誰よりも忠実な同伴者になった1

絶望は若き芸術家、駆け出しの作家のみを捕えていたのではなかった。絶望は誰にも等しく、創作の円熟期に入ったノーベル賞作家をも捕えていた。アイルランド・ダブリン出身のサミュエル・ベケットである。

冬のある朝、アリエータとリュクサンブール公園を散歩している時に、側道の並木道に黒い鳥のような人物が身じろぎもせずひとりぽつねんと新聞を読んでいるのを見かけた。サミュエル・ベケットだった。全身黒ずくめの服で身を固めた彼は、椅子に腰を掛けてじっとしていたが、絶望感に打ちのめされているようで、見ているこちらの胸が苦しくなった。それが彼、つまりベケットだとは容易に信じられなかった。[…]人気がなく、古びて寒々とした公園で絶望感にひたって新聞に目を通しているところに出くわすとは夢にも思わなかった。時どきページを繰っていたが、リュクサンブール公園が揺れ動いてもおかしくないほどの怒りを込めて力一杯繰っていた2

マタスのパトロンであり、彼に無償で屋根裏部屋を提供した小説家 マルグリッド・デュラスも絶望と対峙していた。彼女は出版社のインタビューで、創作の動機を次のように話している。「することがなくても平気なら、何もしたりしないわ。何もしないでいることができないから書いているのよ3」しかし、彼女は弟子 マテスの前では憎しみを込めて次のように話した。「自殺しないために書いているのよ4」弟子は師の公案のごとき問題に自問自答する。「彼女がものを書くのは、何もしないでいることに我慢できないからか、それとも自殺しないためだろうか、いったいどちらだろう?5

先のベケットはパリを終の棲家にしたが(ダブリンに退却する選択肢は彼にはなかった。彼は最期まで前衛を貫いたのである)、アーネスト・ヘミングウェイは1923年にこの街に訪れて、小説修業に励み、『日はまた昇る』を出版したが、結局、この街を離れていった。彼には「パリの冬は寒かった」のである。マテスは家主 デュラスに約30年分の光熱費を請求されたのを機にパリを離れたが、心はすでにこの街になかった。タイプライターの打ち方を身に着けたし、長篇『教養ある女殺人者』も脱稿した。彼はバルセロナでも書けると確信したのだ。 彼を絶望から救ったのは文学のアイロニーだった。デュラスの教育は奏功した。マテスのパリの文学修業はここに完成を見たのだった。

なお、哲学者 森有正は1950年にパリに留学したのを機に、大学の教職を投げうって、この街に住みついた。パリを去る人もいれば、パリに一生とどまる人もいる。彼もまた、パリの絶望にぶつかった人だった。

美しい秋晴れ。絶望に就いて考えている。これが亦一つの領域であることが判ってきた。領域であるならば、これを避けて通るか、あるいはその中を通過してしまわなければならない6


  1. エンリーケ・ビラ・マタス『パリに終わりはこない』(河出書房新社、2017年)177頁。

  2. 前掲書、258頁。

  3. 前掲書、262頁。

  4. 前掲書、同上。

  5. 前掲書、262-263頁。

  6. 森有正「城門のかたわらにて」『バビロンの流れのほとりにて』(筑摩書房、1968年)395頁。

精神障害者保健福祉手帳

本日、精神障害者保健福祉手帳を取得した。

等級は3級。申請の際に提出する主治医の診断書は読んでいないが1、診断名は双極性障害(躁鬱病)である。気分障害の一種だ。痼疾、宿痾、持病など、日本語には「不治の病」の表現はいろいろあるが、その人を苦しめている症状を「病気」と見るか、それとも「障害」と見るかで、その後の対応の仕方が大きく異なる。

病気は治療し、完治することができる。それを前提にして、治療計画は立てられる。かたや、障害は完治することができない。治療の限界と完治の無理を悟る時、初めて傷病は障害として認識される。彼/彼女はリハビリテーションによって、少しでも健常者に近づくことを余儀なくされる。患者としての生に加えて、障害者としての生が始まるのだ。

自身を省みれば、十代にすでにその兆候は認められたが、二十代半ばから私は躁鬱病に苦しめられてきた。躁鬱病は一般的に気分障害として分類されているが、私の場合、気分の浮沈よりも2、思考の歪み、思惟過程の問題の方が重篤だった。懸案が一つ増えると、それに掛かりきりになる。ぐるぐる思考ないし無限ループにはまってしまうのだ。倉阪鬼一郎の『活字狂想曲』に、「すみません。今日、頭の調子が悪いので休みます」と言うくだりがあるが、本当に頭が悪くなるのである。胃でもなく腸でもなく、純粋に頭の調子が悪い時(心の調子が悪いのではない)、私も先の人に倣って、素直にそう言うようにしている。周囲の人々は案外、納得してくれるものである。

私が精神科に定期的に通院し始めた頃、葛飾区役所の職員の方3が、精神障害者保健福祉手帳を紹介してくれたが、「私には必要ありません」と、断ってしまった。その4年後、私は手帳を申請し、交付される運びとなったのだが、その心変わりは何か? 躁鬱病は私の宿痾であり、一生、闘わなければならないと観念したのである。一時期、酒で解決しようと試みたことがあるが、どだいそれは無理な話で、結局、規則正しく薬を飲むことになるが、それでも寛解しなかった。定期的に頭の調子が悪くなる。私は病気に敗北したのだ。しかし、闘争の継続を宣言した。精神障害者保健福祉手帳の取得は、そのメルクマールなのである。

私は個人事業主になったのを機に手帳を取得したが、アルバイト、サラリーマンなど普通に会社に勤務されている方も、積極的に取得してほしい。所得税、住民税、相続税が控除になるので、その便益は計り知れない。障害等級3級はいかにも軽く聞こえるが、それに対する福祉の内容は勤労者にふさわしい。病気/障害を恥じたり、出世の妨げになるのでは、と心配される方も多いが、病気と本腰で闘うためには世間体など気にしてはいられない。ケイ・ジャミソンのように、躁鬱病は私の人生のテーマのひとつになっている。


  1. 患者は閲読不可。

  2. 躁鬱病と言われているように、気分の浮き沈みはあるが、私の場合、慢性的に抑鬱状態にあった。双極性障害2型の典型的な症例である。

  3. 区の福祉担当者として、篤実かつ親切な方だった。

肉体の地獄

「落ちる所まで落ちたから、あとは昇るだけよ」

職場の看護師はそう、沈鬱な表情を浮かべている私を励ましてくれたが、ふと、ある疑問が浮かんだ。

人間はどこまで落ちることができるのか。もし、奈落あるいは地獄という場所があるとすれば、それはどこにあるのか。来世か。それとも現世か。そもそもそれは肉体を備えた、生身の人間が経験できるのか。もしかすると、それは場所であると同時に状態ではないか。と、いろいろな疑問が浮かんでくる。

「堕ちよ、生きよ」と坂口安吾は言った。また「尻もちを着いて、文学は始まる」と司馬遼太郎は言った。しかし、辷った人の臀部を支えてくれる地面は、床は存在するのか。底知れぬ深淵と虚無があるだけではないか。「深淵を見つめない方がいい。深淵もまた汝を見返してくる」というニーチェの言は、人間の執拗な自意識を感じさせるけれど、そうすると、意識1こそが人間の地獄ではないかという結論に達する。しかし、地獄はそんなに観念的、唯心的なものだろうか。私は地獄は現実的リアリスティックに存在すると思う。しかも、それは肉体を備えた人間のみが経験できるのだ。霊魂は罪を知らない。肉体、あるいは肉欲こそが、私たちに罪を教えるのだ。——肉体の地獄。


  1. ニーチェはこれを“Es”と呼んだ。

懦弱と自由

数日間、ブログを更新していなかったけれど、けっしてブログのことを忘れていたのではありません。他にライティングの案件があり、それに注力していたら、書きそびれてしまったのです。単価は低いのですが、継続してご依頼いただけているので、有り難いことです。そして、何よりも書いているという事実が、私を絶望から救っているのです。

正直、疲れていました。近頃、私は激しく滅形を感じていたので、東京の生活を引き払って、福島に遁走してしまおうと思ったけど1、まだ東京で文士ライターとして頑張っていこうと思い直しました。究極的に人を支えるのは愛ですが、今では仕事とそれがもたらす自由は、人を懦弱から立ち直らせてくれるものだと理解しています。

今まで少々肩肘張って書きすぎたのかもしれません。まったくないと言えば嘘になりますが、ブログには名誉も金銭もほとんど期待していませんので、もっとお気軽に書こうと思います。やっぱり、時間を見つけて毎日書くのがいいですね。ライティングの仕事に疲れた夜に、近況報告、生存報告のような形でブログを更新したいと思います。


  1. 所謂「故郷への追放」。