短歌を切る

おそらく、私に語学の才能はない。小学生の頃は国語で零点を取ったし、学生時代は一貫して英語の点数が低かった。ドイツ語もいまだにものになっていない。日本語、なかんずく、古文も言語の一種に違いないから、これも例外ではない。知識と情熱のある良い先生に付いたが、芽が出なかった。私が本格的に言語に関心を持ったのは、すべての学業を終えた後である。

短歌を書き始めたことが大きい。学生の頃から詩(自由詩)には親しんでいたけど、実作において、私はなぜか短歌という、2011年の当時としてはややマイナーな短詩型を選んだ。文芸に限らず、流行モードというものは景気変動のようなもので、短歌は10~30年のスパンで大きな流行がやってくる。国民文学の様相を呈する。その時、一握りの天才歌人が現れて、頽廃した日本民族を解放と救済に導くのだ。あの頃の俵万智はさながら巫女シャーマンであった……1。やめよう。こんな話はやめよう。とまれ、文学と宗教は究極においては近づくとしても。

私はかつて、塔という結社に所属しており、その創始者 高安国世がリルケの研究者であると同時に歌人であったから、短歌を始めた。こう説明すれば簡単かもしれないが、私が短歌を始めた理由、短歌に執する動機は、私の自意識のもう少し深い所にあるのかもしれない。それは私の衒学趣味である。それは私の虚栄心という浅薄な感情に根差しているけれど、趣味/嗜好というものは、否定しがたく、御しがたい、遂には度を越すのである。むしろ、それが趣味の趣味たる証左である。

私は文語を読み書きすることで、日常の平凡な意識を越えたいのかもしれない。それゆえ、私は高踏派なのだろう。民主主義者には違いないけれど、どこかお高く留まっている。お話し好き——。普段、私と接している人達はそんな感想を抱くだろう。しかし、そこに一抹の真理がなければ、話す価値もなければ聞く価値もはないと思う。日常会話は私のもっとも厭う所である。

短歌は私のプライドを賭けた闘いなのかもしれない。


  1. 短歌と俳句の世界では、句と歌は賜物と言われる。

ドヤ街に歌えば 3

バー 玉ちゃん

街場と酒場

山谷には飲食処のみくいどころが少ない……。この街を訪れた人の初めの印象は左記のようなものではないか。たとえ、それが統計的に事実だとしても、お店の雰囲気、料理の滋味、店主の人柄を知らなければ、片手落ちになるだろう。「戦いは数だよ兄貴!」と、ドズル中将は言った。それは本当だろう。人口の多い所に資本は集まる。逆もしかり。この現象は都市経済学において集積効果と呼ばれている。一見、もっともらしく見えるが、私はこの「長いものに巻かれろ」理論に不満である。世界には、輝いている所、栄えている所、豊かな所だけを見ても分からないことがある。大谷崎(谷崎潤一郎)は『陰翳礼讃』で、それを堂々と主張したし、私のような信条の持主もすでにそのような思考様式を備えている。明暗を見よ。——それが文学者としての立場である。

山谷清川に一軒の酒場がある。バー 玉ちゃんである。私が当地に宿泊して以来、ひいきにしているお店である。入口の引き戸を開けると、きまって中年の一組のカップルが居る。一人でも居やすい。あるいは大切な人と二人で来てもなお居やすい。そういうお店なのである。店内はカウンター席の他にテーブル席も用意してある。

私は来るときまって、ビールと焼鳥を注文する。焼鳥はモモ、ハツ、スナギモである。炭火焼鳥である。焼鳥の他にアスパラ巻きも美味しい。苦みと歯ごたえが絶妙なバランスなのである。

店主の玉ちゃんこと、玉田淳さんは72歳。好奇心の塊のようなつぶらな瞳が特徴である。髪も丁寧に分けている。上品な方である。長年、飲食業界、お酒を扱うお店で働いていたが、珈琲の心得もあるらしい。そのためだろうか。彼の作る料理はお点前を彷彿させる。店内のバックミュージックには、クリストファー・クロスの「アーサーズ・テーマ」のカヴァーが流れていた。ハイカラなのである。

ビールのあとに、冷酒を傾けていると、玉田さんは酒棚バック・バーからやおら、ジョニーウォーカーの瓶を取り出してきた。

「これは12年のアイラオリジンと言うんですよ。ウィスキーは最後はスコッチに、アイラに至るものです。飲んでみてください」

ショットグラスに、味見をするよりもチョット多めに注いでくれた。一滴、二滴、舌に滴下すると、口の中にスコッチ特有のピート臭だけではない、それ以上の味わいが拡がった。この豊かなふくらみこそが美酒の美酒たるゆえんである。普段、安酒を飲んでいるから分かるのだ。

私がライターとして山谷の地域を調査していることを告げると、玉田さんは私に示唆に富むことを教えてくれた。

「それなら銭湯に入ることです。近頃はどこでも銭湯が少なくなっているでしょう? でも、山谷は今でも銭湯が盛んなんです。この辺だと栄湯がおすすめですね」

街場が銭湯を作り、銭湯が街場を作る。そして、街場が酒場を作り、酒場が街場を作るのではないか。私はウイスキーを飲みながら、一人そんなことを考えていた。

銀座か 山谷か

玉ちゃんの料理は美味しい。焼鳥はもちろん、親子丼、蕎麦など、腰を据えて食事をすることもできるから嬉しい。それに合う日本酒もたくさん品揃えしている。お酒と料理の店なので、普通の感覚で言えば居酒屋だが、私はバー 玉ちゃんと言う方が好きである。それは看板にそう書いてある以上に、洋酒の種類が格段に多いことだ。それもウイスキー、ジンなどのスピリッツだけでなく、リカール、イエーガーマイスターなどのリキュールも揃えている。本格的なカクテルが楽しめる、山谷の唯一の店ではないだろうか。

「ティオペペが置いてありますね」私は酒棚の一角を差して言った。「昨日、小岩の酒場でシェリーを飲んできたんですよ。まさか、山谷でも会えるなんて」

「シェリー、美味しいですよね。食前、食中、食後、いずれにしても最適です。昨日、そのままで飲んだのでしたらどうです? トニックで割ってみては。ソーダで割っても美味しいですよ」

私はトニック割を注文した。

「レモンとライム、どちらを入れますか?」

「ライムでお願いします」

玉田さんはタンプラーに氷を入れ、丁寧にビルドした。「どうぞ」

「爽やかな苦みを感じますね」

「シェリーとトニックの苦みが良いアクセントになるんですよ。ソーダを少し入れて、苦みを抑えています」

山谷のドヤの門限は午後11時。私は時間ぎりぎりまで玉ちゃんのカウンターの席に坐っていた(酒場に長居してしまうのは私の悪い癖だ)。百聞は一見にしかず、山谷で本格的なカクテルが飲めるのだ。銀座で飲むのとは一味違う。この世には輝いている所、栄えている所、富んでいる所で飲むだけでは分からない味がある。山谷の玉ちゃんは私にそのことを教えてくれた。

シェリー・トニック

ドヤ街に歌えば 2

ビジネスホテル 紫峰

「うちは1泊だけっていうのは、やっていないんですよ」

私が簡易宿泊所ドヤの門を敲いた瞬間、帳場から発せられた一声である。表には「空室あり」と書かれているにも関わらず、常宿にしている客以外——いわゆる一見様はお断りのように思われた。探訪2回目で、この街は新参者に対して閉ざしているという事実をまざまざと見せつけられた。否、それはむしろ切実な生活の必要に迫られていない、好奇心という私の不実な動機を、この街の人々が責めているのかもしれなかった。

3軒目にしてようやく成約した。屋号は紫峰。「ビジネスホテル」と書かれているが、1泊2250円の破格の料金は他の簡易宿泊所と同等である。帳場は中年の女性の方で、私が帳簿の職業欄に「ライター」と書くと、万事察してくれたらしく、黙って領収書を切ってくれた。前回、立ち飲み屋 みづの家の女将が言っていたように、案外「そういう若者は多い」のかもしれない。和室と洋室を選べるので、私は後者を選択した。帳場の方が鍵を渡してくれたので、『ホームレス歌人のいた冬』を読んで、ドヤに鍵はない、と先入見として理解していた私は拍子抜けしてしまった。知識と理解は大違いである。実際に泊まる。経験してみなければ分からないことはたくさんある。

私の泊まったドヤは、3畳(冷暖房/冷蔵庫/ベッド/テレビ付)の個室だった。簡易宿泊所というよりも木賃宿という印象である。ベッド上方、枕元にはベニヤ製の床頭台があるので、客はそこに料理を並べて、枕元に正坐をしながら食事を摂ることになる。また、ベッド下方、冷蔵庫の上には小型テレビが載せてある。客は上体を起こして、あるいは寝ながらにしてテレビを観ることができる。ドヤの生活がなんとなく想像できる。それは布団と一心同体の生活である。ドヤはまさしく寝るための場所なのだ。ちなみに私が泊まった紫峰は全室禁煙である。ゆえに寝タバコ厳禁である。これには意外な感があるが、防火上の理由が大きいのだろう。

簡易宿泊所(ドヤ)の内部。床頭台で食事を摂る。

テレビは冷蔵庫の上に置いてある。

私がチェックインしたのは午後6時。紫峰には共同浴場が併設され、午後8時まで入ることができるが、近頃の私は風呂に入ることがとみに億劫になっているので、今夜は割愛することにした。私は部屋に鍵を掛け、施錠されていることを慎重に確認すると、山谷の夜にくり出した。

ドヤ街に歌えば 1

泪橋のあしたのジョー

はたして私が山谷に来るのは正しい行為おこないなのだろうか?

私は泪橋に屹立する、あしたのジョーの銅像を前にして、自問自答していた。

南千住の駅を降りると、私は立体交差の歩道橋を越えて、さらに南下した。泪橋1を渡ると、景色がにわかに変化を遂げる。山谷に入ったのだ。狭い路地に〈簡易宿泊所〉〈旅館〉〈ビジネスホテル〉などの看板が立ち並ぶ。取材したくても伝手つてを持たない私は、偶然、GoogleMapで見つけたカトリック教会を訪れることにした。宗派は違えど、同じキリスト教徒だから歓待されるのではないかと思ったからだ。

そこはカトリックではあるが、教会ではなく、修道院であった。神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)という、マザー・テレサが設立した修道会で、マザーが主に召されたあとも、彼女の教えを守り続けている。私が訪れた〈山谷の家〉は男子修道院で、むろん、女性は一人もいない。修道士と聞くと、スカプラリオという一枚布を纏っているイメージがあるが、私が接見した修道士達は、下はジーンズ、上はTシャツにウィンドブレーカーという、質素を通り越して粗末な服装なりをしていた。同会の修道士 広瀬さんに話を伺った。

「オモテの掲示板に、毎週土曜日に炊き出しをやっているとのことですが……」

「ええ。土曜日には白髭橋でカレーライスを配っています。でも、土曜日以外にも、たとえば今日のような平日でも、朝8時半に修道院の前で炊き出しをしています。今日のメニューは五目御飯です」

取材の最中にも来客があり、修道士 高木さんが五目御飯を手渡していた。

五目御飯

「炊き出しはいつ頃から始めたのですか?」

「この修道院は1978年に設立されました。40年以上、山谷の人々に炊き出しをしていることになります。受け取りに来る人は、2/3が生活保護の方、1/3がホームレスの方です。私達はマザー・テレサの教えを忠実に守っています。修道院の建物はコンクリートの打ちっぱなしですが、綺麗に塗装しています。白と水色は彼女のシンボルカラーなのです」

「ありがとうございました。兄弟に主の平和がありますように」

私はカトリックの習慣に倣い、三本の指を合わせて十字を切った。

神の愛の宣教者会 山谷の家

山谷には極端に飲食店が少ない。その代わりに業務スーパーなどには、惣菜、カップ麺などが充実している。この街に住む人々は外に飲みに行くことはせずに、ドヤの中でひっそりと、一人食事を摂っているのではないだろうか。

ようやく一軒の店を見つけた。立ち飲み屋 みづの家だ。

私の他に先客が2人来ていた。いずれも男性である。私は黒ホッピーとコブクロ刺しを頼んだ。

「背がでかいねー。それにその肩幅!」

「ハハハ、働きざかりですから」

「あんた、見ない顔だけど、どこに住んでいるの?」

「小岩です。今日は仕事でこちらに来ました。山谷を調べているんですよ」

カウンターの中央に立ち、酔漢の采配をしているママが言った。「そういう若い人多いよ」

悪意はほとんどないが、その言葉は棘となって私に刺さった。

やがて、隣に女性客が来た。「あなた、介護士をしているの? 私、以前は病院で看護師をしていたのよ。ママ、この子にもう一杯ついであげて。今はね、吉原でソープ嬢をしているの」


  1. 現在は交差点。

ドヤ街に歌えば Prologue

「兼子くん、うちの学生に何か話してみてよ」と、先生に言われたので、政治学、文学などの文献を当たってみたけど、90分間話し続けるほどの分量に纏める自信がない。居直って短歌を書いたが、韻文では講義からはますます遠くなるばかりである。

先生は横浜市野毛に住んでいて、30分くらい歩くと、ドヤ街で有名な寿町がある。先生はそこで本業のかたわら、移民、難民の支援活動をしている。先生は酒屋の角打ちで私と酒を飲みながら、寿町についていろいろなことを教えてくれた。先生のゼミの学生はドヤ1で寝泊りすることが習わしになっているらしい。

寿町を知るための一冊として、まっさきに浮かんだのは、山田清機『寿町のひとびと』(朝日新聞出版、2020年)である。頁を開くと、エピグラフに次の一首が引かれていた。

哀しきは寿町と言ふ地名長者町さへ隣にはあり

すぐにピンときた。ホームレスの歌人 公田耕一の歌だ。彼の歌人としての軌跡は、三山喬『ホームレス歌人のいた冬』(文藝春秋、2013年)に収められているが、私は出版社に勤めていた頃、隣のお姉さんに勧められ、譲って貰ったが、書架に収めたままになっていた。

私は先の二冊を鞄に入れると、書斎を、下宿を出て、クロスバイクに乗った。金町駅を起点にして、南千住駅まで行くのだ。

「寿町については、ノンフィクション・ライターの二氏の他に、政治社会学者の先生も研究している。東京の下町に住んでいる私は山谷に行こう」

私がフリーライターとして初めて取材に出た日のことである。頼りになる理論など持ち合わせていない。そもそも何について書きたいのか自分でも分からない。しかし、自身の五官で直接見、聞き、嗅ぎ、口にし、触れたものを書いてみたい。そのような感覚から、理論が、思想が、哲学が浮かび上がってくるのではないか。

ようやく、らしくなってきた。


  1. 日雇労働者むけの簡易宿泊所。

戦後短歌ルネッサンス

近藤芳美の第一歌集については諸説ある。『早春歌』と言う人もいるし、『埃吹く街』と言う人もいる。発行日は『埃吹く街』の方が早かったようだが、いずれにせよ、私は後者を近藤芳美の処女作として認めたい。作家の本質はその処女作にすべてが表われるという。近藤芳美はこの歌集に、自身の個性のみならず、戦後時代精神ツアイト・ガイストを表現した。その結果、本書は彼を戦後歌壇の寵児たらしめ、以後、彼は『埃吹く街』を念頭に置かずして、新たに作品を詠むことも、歌集を編むことも叶わなくなった。作品は作家を代表する。『埃吹く街』は近藤芳美の代表作である。

いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ

巻頭一首。青年(近藤芳美)は、戦前のファシズム、軍国主義の時代と訣別する。戦後、それらに替わるイデオロギーは民主主義、平和主義なのかもしれないが、それについては言明していない。いずれにせよ、青年にとって困難な時代は続く。

さながらに焼けしトラツク寄り合ひて汀のごときあらき時雨よ

焼跡は軍政の統治下でも、それからの解放軍GHQの統制下でも変わらず見られた光景だった。かつて東京の焼跡に黒い雨が降った。その後、白い雨、すなわち時雨に変わったが、雨は雨である。

一人うつヴィタミン注射ひえびえと畳にたるる夜ふかくして

夜おそく腿に注射をうちて居る妻のうしろに吾は立ちたり

医者と看護師に頼ることなく、自分で注射を打つことができた時代。否、打つことを余儀なくなれた時代。ヒロポンを打つか、あるいはビタミンを打つか。当人たちの意識に本質的な差はなかったのではないか。

灰皿に残る彼らの吸殻を三人は吸う唯だまりつつ

かたへにて吾の煙草に咳きて居し妻の寝入りて冴えし夜となる

故障せる電車の床にかがまりて煙草を吸へりたれも醜く

近藤芳美の〈著者近影〉として、紙巻を吸っている写真が何点か残っている。愛煙家、少なくとも煙草は好きだったのではないか。本集にも、煙草にまつわる佳首が何首もある。各人がシケモクを拾い集めて、辞書の紙を破り、紙巻煙草を作った時代だった。『埃吹く街』の人々はよく煙草を吸った。一服しなければ、過酷な人生を乗り切ることができなかったのだ。

降り出せば明るくなりし夜の街軒をつたひて吾らは帰る

霧雨に吾らは濡れて帰り行く立場があれば君いさぎよく

にえ切らぬ口の表情昼来れば髪乱れつつ銀座をあゆむ

『埃吹く街』にはしばし雨が降る。雨は生活の厳しさの象徴であると同時に、青年達の出立を祝福しているのだ。雨に洗われた銀座の街は美しい。巷の埃、世界の夾雑物を洗い流してくれるからだろう。事物が鮮やかに見える。視界が一気に開かれるのだ。

漠然と恐怖の彼方にあるものを或いは素直に未来とも言ふ

短歌結社『未来』の創設/創刊を予感している。本誌が以後の近藤芳美の創作活動の拠点になったとすれば、本首を収録している『埃吹く街』はやはり、彼の代表作と言っても過言ではないだろう。優れた作品は、一過性に終始しないで、作家の未来の展望を拓くのだ。

にぶき音くもりの下にひびく夜をささやく如き声街にあり

不安と恐怖は『埃吹く街』に棲息している。戦後に生きる私達は、絶えずその影に怯えながら、抗いながら、創作し続けるしかないのだ。戦後の都会詠として、『埃吹く街』は短歌史、文学史に永遠に記録された。戦後が再び現象している今、省みられるべき歌集である。

事物と情緒

「タバコの時間だな」

以前、煙草屋に勤めていた友達の紹介で、BOHEM CIGAR NO.6(Tar:6mg, Nicotine:0.6mg)を試してみた。

外箱に"containing 30% of fine cigar leaf"と書かれている。葉巻の葉を30%含んでいるそうだ。確かに、軽いのに芳醇である。「淫蕩」と言ってもいいくらいだ。葉巻シガーの喫味に一脈通じるものがある。珍しいタバコなので、コンビニ、煙草屋になかなか置いてないが、レギュラーの"CIGAR"とともに、メンソールの"mojito"も香り高い。"The rich taste & aroma of distinctive tabacco"の謳い文句は伊達じゃない。愛煙家にはぜひ試してほしい銘柄である。

机の抽斗から数種類のシガレットを取り出す。それから立て続けに喫う。普段、私は煙草を1日2本喫う。まったく口にしない日もあるが、たまには本腰を据えて喫いたい時がある。一度、火を着けたら20分以上楽しむ、パイプを喫っている感覚に近いのだと思う。先日、とある酒場で私がパイプを吹かしていたら、「あれはポーズだ。なんだか鼻につく」と言った輩が居たが、ポーズでも、スタイルでも、何でも結構だが、人は自分に合った調度と習慣を身に着けるのであり、それはやがて一過性の流行モードを超えて、その人の個性を形作るのである。志向/嗜好は先験的アプリオリな要素が強い。こればかりは如何ともしがたいのである。

煙草の話はこれぐらい。読者を十分ケムに巻いたので、次は短歌について書く。

短歌は私にとって、どうして重要な詩形なのだろう。私が短歌に執着するのはなぜか。——短歌を書く時、私は自由になれる。これが最もシンプルな回答だろう。きざな言い方をすれば、私は短歌という詩形に安らいでいる。小説よりも坐りがいいのは間違いないだろう。その理由を少し考えてみた。

私の短歌の師匠の一人である、三井修先生は「短歌は説明するのではない。描写するんだ」と言った。たとえば、こんな一首ができる。

悪場所の酒を飲みたる暁に雨に打たるる陋屋に帰す

所謂、写生である。その意味で客観的な描写を心がけているが、初句に「悪場所」と書かれているように、私の主観が投影されている。事物リアルの中に情緒センチメントを織り込むことができる。そこが私が短歌に居心地のよさを感じる理由の一つである。

しかし、短歌は写生/描写ばかりが能ではない。時にはこんな、観念的な思想詩が書けるのである。

空蝉うつせみが我に信実求むれど我は汝の道に叛きつ

吾ながら自我エゴが強い。けれども、短歌は俳句と比べて、その調べの長さのゆえに、主義主張、もう少し高尚に言えば、思想を表現することができるのである。その意味で、短歌は箴言アフォリズムに近づく。私は歌人である以上に政治哲学者なので、短歌のこの器の広さに負うところが大きい。南原繁が短歌に一方ならぬ情熱を傾けた理由が分かり始めた。凡夫である私に、表現することの楽しみ、苦しみ、そして、それを補って余りある自由を教えてくれた短歌という詩形に私は感謝している。

BOHEM CIGAR NO.6