世を愛し世を憎む

『聖書』の四つの『福音書』のうちで、私は圧倒的に『ヨハネ伝福音書』が好きである。次の一節を読むと、私は静謐な喜びを覚える。

それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。神その子を世に遣したまへるは、世を審かん為にあらず、彼によりて世の救はれん為なり。

キリスト教において、普通、世すなわち世界は、地上を意味している。天上の対義語で、来世でなく現世の、苦しみに満ちた人間の宿命を示している。

ハンナ・アレントの主著に『人間の条件』というものがある。本書はもともと『世界への愛』として構想されたのであるが、その内容を鑑みるに、かの『福音書』を意識していたのではないかと思われる。博士論文として、『アウグスティヌスの愛の概念』を書いた彼女は、血筋はユダヤ人であれ、精神はキリスト教徒そのものだったのではないか。たとえ、洗礼を受けていなかったにせよ。

しかし、『聖書』と同じく、彼女に影響を及ぼしたのは、やはり、ニーチェである。『ツァラトゥストラかく語りき』には「汝、地上を愛せよ」という一節がある。彼は天上の生を志向するキリスト教の信仰を180度転倒させた。近代に生きたアレントは、彼の大地礼賛の教義を批判しつつ受容するという矛盾した立場を取った。そういえば、芥川龍之介は、ニーチェを含めた近代の生の哲学を「生命教」として揶揄して憚らなかった。彼はアレント女史に比べてシニックな立場に居たのである。

話を『聖書』に戻す。次は『ヨハネ伝福音書』の最も美しい一節である。

過越のまつりの前に、イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り、世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり。

泣きそうになる。イエスに倣いて、私も不完全であれ、たえず、このような愛の実践を試みている。

そして、イエスはこの愛の格率を次のように説いた。

わが誠命は是なり。わが汝を愛せしごとく互に相愛せよ。

ただし、次のように付け加えることを忘れなかった。

世もし汝らを憎まば、汝より先に我を憎みたることを知れ。汝等もし世のものならば、世は己がものを愛するならん。汝らは世のものならず、我なんじらを世より選びたり。この故に世は汝らを憎む。

使徒ヨハネは繊細で、鋭敏な神経の持主であったが、おそらく精神的に可也不安定だったのではないか。考古学的研究によると、『ヨハネ伝福音書』と『ヨハネの黙示録』の作者は異なるという説があるらしいが、私は、この二つの書物には同じ精神が息づいているように思う。ヨハネは世を愛し、世を憎んでいた。この矛盾した事実が、彼をして、イエス・キリストを魅力的な存在として描いているのである。

わたしとぼくのゲーム理論

「少し、席を外そうか」

別室に移動すると、私はポケットから退職届を取り出し、テーブルの上に置いた。一瞬、上司は嫌な顔をした。

「行動があまりに衝動的すぎますよね」そして、続けた。「先日、話し合いをしたばかりなのに」

「**さんには不義理を働いてしまいますが、私の意志は変わりません。年末で辞めさせていただきたいと思います」

「まずはそう思うようになった原因を考えてみようか」

私は出版に戻りたいこと、介護から心離れていること、そのために同僚と同じ方向を向けないために、孤立感を抱いていること、さらに言えば、ある同僚が私を虐げていることについて話した。

「Fについては、ほかの人からも苦情が来ているんだ。近々面談して手を打ちたいと思う」上司は続けた。「兼子さんが気持よく働けるように、会社は努力する。できれば末永く働いてほしいが、少なくとも年度末までは居てほしい」

退職届は私と上司の中間に置かれている。上司が話しているあいだ、私はたびたび、それに目を落としていた。——これをどう扱ったらいいか、決めかねていたからだ。

「話の本筋は逸れますが、私は介護福祉士の資格を取ったことを後悔していません。たとえ、本来の志望は出版にあっても、介護を含めた福祉を否定はしません。今後の人生で、私が現場で介護をするかは分かりませんが、細く、長く、福祉に携わる予感はあります。炊き出しをするくらいですから——。私は人のお世話をすることは必ずしも嫌ではないのです。むしろ、私の仕事ぶりは課長の目にどう映っているのですか?」

「真面目に働いているよ。松戸から異動したばかりなのに、本当によく動いている。私は君に居てほしい。君が安心して働けるように最善を尽くす」

私は退職届を手元に引き寄せた。

「分かりました。年度末まで働きましょう。お忙しい中、お時間を頂き有難うございました」

これはゲーム理論だ。と、私はそのとき悟った。私達はひとえにナッシュ均衡を探し求めていたのだ。退職の時期を遅らせたことによって、私は年内に山谷のルポを擱筆し、年明けに正社員を目指して就職活動をすればいい、と思った。それまで自力で、ライター、エディターとしての勘を取り戻すのだ。

否定の意志

退職届を書いた。

これを今日、上司に提出すれば、来年の私の生活は一変すると言っても過言ではない。

4年間勤め上げた会社だが、今では一介のアルバイトに過ぎない。決意、と言っても大げさかもしれないが、私のささやかなそれは退職ではなくて、来年の仕事、否、今後の自分の一生の仕事に向けられている。辛いから辞める、それも一理あるが、それよりむしろ、我はいかに生くべきか、己に深く問うた朝だった。死人のごとく生きること、それは私にふさわしい生き方ではない。その否定の意志を私は退職届に記した。

さあ、仕事を探そう。

ものごころ憑きし頃

私に正確な古文の知識はない。しかし、「ものごころ」が昂じると、やがて「ものぐるおし」という感情になると思う。本当に物に狂っているのである。

物には人を狂わせる魔力がある。本、酒、女、煙草、文具……そういう奢侈品、嗜好品に私は今まで狂ってきた。物心とは物を求める心、物を愛でる心である。それが激しくなる、抑え切れなくなる、常軌を逸するから、人は物狂おしくなるのである。

なので、物心が憑く年頃というのは、思春期よりもやや早いような気がする。私の場合、小学校低学年の頃からすでに始まっていた。物を求めるためには手段を選ばない、のではなく、やはり、効率的な手段を考えなければならない。自然、頭を働かせることになる。他人とは違う自分の趣味、嗜好を自覚する。自意識が芽生えるのだ。子供は大人が思っている以上に頭がいいのである。

しかし、思春期は危機の時である。体の変化に合わせて、心が変化するのは当然である。本当に恋をする。若者は皆、物狂おしいのである。

宮田雄吾『14歳からの精神医学:心の病気ってなんだろう』は、思春期を生きる若者の心と体の悩みに優しく答えている。たとえば、不登校の陰に適応障害が潜んでいる場合がある。宮田氏は次のように諭す。

君が適応障害になったからといって、別に君のすべてがダメになったわけではない。不登校は、「今の君」が「今の学校」と合わなかっただけなんだ。14歳の君はまだどんどん成長するし、君が大人になった時に生きていく「社会」は、「学校」と比べるといろいろな人を受け止めることができる1

人は大人になると、学校を出ていく2。その際、不思議な開放感を味わうのではないか。社会は窮屈に違いないが、一方で、茫漠かつ広大である。学校はあくまで社会という荒野で生きていく為の準備と訓練をする場に過ぎない。

もう一つ言うならば、君の日常を変化させるために大切なのは、心の内側の変化ではない。心の外側、つまり行動の変化だ。行動を変えれば結果が変わる。要するに、君がどんなにつらくても、行動をくずさなければ、人生はくずれないんだ。そのことは知っておいてほしい3

真理は一つである。それは年齢を超越している。宮田氏の言葉は、仕事と持病に悩む35歳の私の心に響いたのである。


  1. 宮田雄吾『14歳からの精神医学:心の病気ってなんだろう』(日本評論社、2021年、新版)149頁。

  2. 老年になって再び学校で学び直すことがあるが、それはここでは措いておく。

  3. 前掲書、233頁。

転職に次ぐ天職

鬱である。

このままだと会社と取り決めた、年度末まで勤め上げるのが難しくなるかもしれない。このまま無理に働いても、休職になるのがオチである。しかも、持病を悪化させるという代償もともなう。それならば、さっさと介護の仕事から足を洗ってしまって、意気揚々と新天地で働いた方がいい。病気を拗らせてからでは遅いのだ。

人間に生命があるように、その人が従事する職業にも生命があると思う。私は飽きっぽい性格なので、それがコロコロ替わるけど、たとえば、その人が仕事をしていて、楽しくない、学びがない、稼ぎがない——これを貧困と言う——状態が続くのであれば、その職業の命脈は尽きている。もはや、生業の体をなしていないからである。この現実を突きつけられた時、人は転職するのだろう。

転職を繰り返していると、自然、天職というものを考えることになる。天職などない、という虚無的ニヒリスティックな考えもあるが、この言葉の観念が存在する以上、天職は現実に存在するのだろう。

ドイツ語の天職(Beruf)は宗教的な概念である。それは神の思し召しという意味である。神の意に適っているとでも言おうか。トマス・アクィナスによると、地上の被造物は最高善たる神を目指している。ゆえに、天職とは神に通ずる道なのだ。人は神から生まれ、神に帰っていく。そこに偶然の余地はない。必然の連関が存在するだけだ。

——そんなことを、鬱になると、私はえんえんと考えてしまう。多分、人間が嫌いなんだと思う。しかし、こうして文章を書いているのだから、私の鬱はそこまで重症ではない。まだ精神の深淵に落ち込んでいない。抗精神病薬をコンスタントに飲んでいることが、鬱に対する免疫を高めているに違いない。けだし、薬物療法に尽きるのではない。こうして文章を書く行為そのものが、明朗と明晰を求める私の鬱に対する抵抗なのだ。それはリハビリテーションないし認知行動療法に似ている。

幸運ヲ祈ル

「あなたは大学を出ているのに、それを少しも鼻にかけない。あなたは真面目に仕事をしている」

昨日、お客さんに言われた言葉だが、これに先立って、こんな会話のやり取りがあった。

「**さん、私、もうすぐこの仕事を辞めてしまいます。もと居た出版に帰りたい。そこで執筆と編集に専念したいんです」

「あなただったら成功するよ」「私もそう思います」「幸運を祈ります」

今の職場はお客さんは善いが、同僚が酷い。この業界に入ってきたときから分かっていたけど、もう我慢の限界だ。燃え尽きてしまった。

転職を急ごう。

文筆と活動

以前、勤めていた所のお客さんから手紙をもらった。異動する時の去り際に、私から手紙を寄せて、だいぶ日にちが経つので、もはや返事は期待していなかったのだが、昨夜、郵便受けを開けてみると、一通の葉書が入っていたので、望外の喜びである。

昔、出版社で編集者として働いていた頃は、手紙を書くことは重要な業務のひとつだったし、短歌の結社に所属していた頃は、同人たちと手紙のやりとりをして、互いに慰め合い、励まし合ったものだった。

私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達からは希望が生まれるということを1

その後、活字とは関わりのない仕事に就いてからは(同時に短歌の結社も辞めてしまった)、手紙を書くことはめっきり減った。以後、私は文盲になった。会社には勤めていたが、社会的には死んでいたに等しい。手紙は活動のバロメーターである。文筆と活動は車の両輪のようなもので、どちらが欠けても目的に辿り着くことはできない。本来、言葉ことば行為おこないは一つである。

ようやく、動き始めた。

生き始めた。


  1. 「ローマ人への手紙」。