鬱である。
このままだと会社と取り決めた、年度末まで勤め上げるのが難しくなるかもしれない。このまま無理に働いても、休職になるのがオチである。しかも、持病を悪化させるという代償もともなう。それならば、さっさと介護の仕事から足を洗ってしまって、意気揚々と新天地で働いた方がいい。病気を拗らせてからでは遅いのだ。
人間に生命があるように、その人が従事する職業にも生命があると思う。私は飽きっぽい性格なので、それがコロコロ替わるけど、たとえば、その人が仕事をしていて、楽しくない、学びがない、稼ぎがない——これを貧困と言う——状態が続くのであれば、その職業の命脈は尽きている。もはや、生業の体をなしていないからである。この現実を突きつけられた時、人は転職するのだろう。
転職を繰り返していると、自然、天職というものを考えることになる。天職などない、という
ドイツ語の天職(Beruf)は宗教的な概念である。それは神の思し召しという意味である。神の意に適っているとでも言おうか。トマス・アクィナスによると、地上の被造物は最高善たる神を目指している。ゆえに、天職とは神に通ずる道なのだ。人は神から生まれ、神に帰っていく。そこに偶然の余地はない。必然の連関が存在するだけだ。
——そんなことを、鬱になると、私はえんえんと考えてしまう。多分、人間が嫌いなんだと思う。しかし、こうして文章を書いているのだから、私の鬱はそこまで重症ではない。まだ精神の深淵に落ち込んでいない。抗精神病薬をコンスタントに飲んでいることが、鬱に対する免疫を高めているに違いない。けだし、薬物療法に尽きるのではない。こうして文章を書く行為そのものが、明朗と明晰を求める私の鬱に対する抵抗なのだ。それはリハビリテーションないし認知行動療法に似ている。