雌伏と至福

昨夜、竹ノ塚のバーで、上司としこたま飲んだ。

11歳年下の上司なのだが、彼女によると、私は「かまってちゃん」らしい。昨夜も「飲みに行くか」と、彼女の方から声を掛けてくれて、意気投合した。「金づるゲットー!」と冗談交じりに言っていたが、そこは「パトロン」であると訂正しておいた。

酒と煙草をこよなく愛する人で、煙草の銘柄をKOOLからPeaceに変えていた。メンソールだと酒を飲みながら際限なく吸い続けてしまうとのこと。一晩で二箱空けてしまうこともあるらしい。とまれ、レギュラーへの鞍替えは煙草ほんらいの味わいが分かる良い選択だ、などと、彼女に比べて私の方が喫煙歴が浅いのに、こんなに偉そうなことを言ってもいいのだろうか。先方はヘビースモーカー&チェーンスモーカーである。シガレットについて私が書いた文章を読ませたら、「あまり煙草を吸わないけど、煙草が大好きな人の感想文」と、笑いながら話した。「へー、タバコ吸い始めたのはけっこう最近なんだ」「そうだよ、この会社に就職してからだね」

私は年度末で転職してしまうけど、お話が絶えない明るい職場だった。私は介護という汚い仕事を通じて、相当鍛えられた。

酒場を後にすると、私は一人、会社の休憩室のソファーで眠った。

ショートスリーパーの苦悩

すがすがしい朝。ウイスキーを飲む。会社の仕事は午後から始まるので、それまでに醒めていればいい、という計算である。

最近は抗精神病薬 アリピプラゾールが身体に馴染んできたのか、コンスタントに5時間くらい眠れるようになった。それでもやはり、長く眠れていた頃に比べて疲れやすいので、機会を見つけて、適宜眠るようにしている。私の寝室の布団は敷きっぱなしである。

世間では、ワークライフバランスについて、喧しく言われるようになってきたが、一方では、ワーカーホリックに対する信仰も未だ根強く残っている。寝食を忘れて働く仕事師は、ことごとくショートスリーパーの資質を備えている(とされる)。実を言うと、私もワーカーホリックに対する憧れがあり、基本薬をアリピプラゾールに切り替えて以後、睡眠時間が短くなったのを内心喜んでいた。実際、仕事量と活動量は上がったので、私の期待外れではない。

しかし、ショートスリーパーは欠点(欠陥)がある。精神的に不安定になりやすいのである。医学的に見て、人間に平均的に必要とされる睡眠時間を1時間でも2時間でも削ると、体と心に静かに負担が掛かる。なので、みずからをメンヘラと自覚している人は意識的に睡眠時間を確保した方がいい。特に心身の調子を崩している時は尚更である。

今、私はさまざまな制約の中、寸暇を惜しんで、よく働いていると思うが、本当の私はワークライフバランスを心底求めているのだと思う。文筆であれ、介護であれ、私は仕事一辺倒になると、いつも体調を崩した。決まって先にメンタルがやられるのである。その最初の兆候は不眠である。私はロングスリーパーに憧れる。アインシュタインは毎日10時間眠っていたと聞く。彼の相対性理論のように宇宙の仕組みを解き明かすためには、たくさん寝て、悠長な気持になることが肝心なようだ。

鼓動

トントン。トントン。

嗜眠から醒めつつあるとき、誰かがドアを敲く音がする。

トントン。トントン。「……いるか?」

どうやら話しかけられているらしい。しかし、意識が回復しないので、うまく応えることができない。

トントン。トントン。「佐藤、いるか? いるなら返事をしろ」

呼ばれているのは私ではない、か。私は寝起きのやや混濁した頭で考えた。呼ばれているのは向かいの部屋の佐藤さんだ。

「また寝落ちしてしまったか」会社から帰ると、炬燵に当たりながら、温かいコーヒーを飲んでいた私は、いつのまにか眠り込んでいた。最近、そんなことがずっと続いている。当時、ミニコミ誌の記者ライターを務めていた私は、不規則な勤務で生活リズムが崩れて、不眠症を発症していた。医者から睡眠薬を処方されていたが、効かないこともあり、慢性的な疲労と倦怠感に襲われていた。もしかすると、この疲労の原因は睡眠不足だけではないのかもしれない。そんなことを思い始めていた。炬燵から這い出ると、私は身体を起こし、髪を整えた。靴を履き、玄関のドアを開けた。「どうしました?」

「佐藤の返事がないんだよ」私達は同じ会社の同僚であり、同じ社宅に住んでいた。彼等は新聞配達員、私は記者という職業の相違はあるけれど。「出勤の時間になっても営業所に来ないし、連絡もつかない。お前達が探してこい、と社長に命じられたんだ。……おうい、佐藤、居るなら返事しろ」

「携帯電話に掛けても繋がりませんか?」

「ああ、音信不通だ。駐輪場には奴のカブ1が置いてあるから、多分、どこにも出かけていない。奴のいきつけの酒場も尋ねたけど、どこにも見つからない。あいつ、酒を飲むことが唯一の楽しみだから。でも、最近は仕事が忙しすぎて飲みに行けてないけどな」

「やっぱり、この部屋に居るんですか?」

「ああ。最近の奴は自宅と会社の往復しかしていない。仕事が終わったら寝に帰る。ただそれだけだ。それに部屋の明かりが点いている」

私達の社宅の個々の部屋のドアには窓ガラスが取り付けられていた。今思うと不思議な設計だが、もともと社宅というよりも寮として建てられたので、住人の動きが多少分かるように作られているのだろう。

「あいつ、いつも電気をつけっぱなしにして寝ているんだけど、さすがに外出する時は消していたんだよ」

「佐藤、開けろ! 中に居るんだろ!」山本さんは続けた。「寝坊にしてはタチが悪い。嫌な予感がしてきたぜ」

「管理人に部屋の鍵を借りてきましょうか?」

「そんな暇はない。一刻を争う事態かもしれない。このままドアをぶち破るぞ。力を貸してくれ」

私と山本さんは「せいの!」の掛け声に合わせて、部屋のドアに体当たりした。ベニヤの粗末な作りのドアは簡単に吹き飛んだ。

予感はしていたものの、そこに拡がっている光景に私達は息を飲んだ。古新聞とゴミ袋が部屋の隅々に所狭しと積み上げられていて、その中心のすえた万年床に、佐藤さんが両手で胸を抑えながら横たわっていた。半開きの口からは涎が垂れていた。

「触ってはいけない!」抱き起こそうとする私を山本さんが制止した。「今年で三人目か。あいつ、もともと心臓が悪かったんだ」


  1. ホンダのバイク スーパーカブのこと。

科学から空想へ

今、私の居間兼寝室には、二人の酔漢が寝息をたてて眠っている。こう書くと、さまざまな方面で、心配されたり、呆れられたりするだろうが、私の実生活というのは案外単純なものである。会社に勤めたり、酒場で過ごしたり、下宿で友達と酒杯を片手に芸術論を戦わせたり、……その合間を縫って、私は文章を書く。その繰り返しである。

毎日ブログを書いていて、最初にぶつかる問題は、書くネタが尽きるということである。そのために私達は読書をしたり、取材に出かけたりすることで、実生活に刺激を与え、経験を豊かにすることで、この危機を乗り越えようと努力する。

しかし、この方法にも限界がある。文章テキストの内容を事実だけに拘泥していると、それはやがて尽きるのである。読書と取材によって、資料を増やしたとしても、それは有限に過ぎないのである。

先日、昔の会社の同僚と電話で話したが、君のブログはつまらない、と単刀直入に言われた。彼は言った。「もっと想像力を働かせて、ハッタリをかまさないと駄目だぜ」単語と単語、文節と文節を繋ぎ合わせるためには連想飛躍が必要である。そして、作品の主題は畢竟、想像力に基づくのである。私はまだ、幼児的素朴現実主義リアリズムの段階にとどまっていた。それだから文章が詰まらなくなる。ただの現実の引き写しに過ぎないからである。

事実は有限であるが、空想は無限である。と、言うのは簡単だが、実際には感覚と経験に多く依拠しているに相違ない。しかし、想像力の源泉は究めがたい所にある。それは神によって先験的アプリオリに与えられていると主張する人もいるが、私にはまだ分からない。けれども、精神の深遠については、書き続けていれば自ずと分かるのではないか。小説を書こう。

炬燵の資本論

居間に炬燵こたつを敷いた。およそ5年ぶりのことである。私が幼少の頃、私たち家族は、椅子と食卓テーブルで暮らしていた。80年代から90年代のことである。一方、居間には卓袱台ちゃぶだいらしきものがあり、そこに座布団を敷いていたが、食事の際はいつも、食卓と椅子で決まっていた。早朝、食卓に流れるラジオの調べとパンとコーヒーの匂い。今思うと、私達はけっこうハイカラな生活をしていたのだ。

0年代を過ぎると、私達は炬燵と座布団中心の生活を営み始める。そして、食事も決まってここで摂るようになった。それは一見、和風にして平凡な、庶民的な習慣ハビットだが、私はこれを下降と見る。それはあくまでも習慣ハビットに過ぎないのであって、生活様式ライフスタイルではないのだ。様式スタイルとは何か? それは或る規則に基づいた緊張に満ちた形姿である。以後、私達の生活は弛緩の一途を辿る。

自分の生活様式に自覚的になり始めたのは、当然、一人暮らしをし始めた時であって、私も初めは実家の習慣に従い、炬燵を用意した。その上に本とPCと珈琲を置き、当時、飲み始めた睡眠薬の効能でボンヤリした頭で、本当によく勉強した。当時読んだ、森有正『バビロンの流れのほとりにて』は忘れられない。「現実が夢に還ってくるというこの過程。パリは僕にこのことを教えてくれた」という一節は、今でも私の心に深く刻まれている。その後、炬燵の放射熱はPCに悪いということで、何か解決策を考えなければならなくなった。転職、引っ越しを機に、私は大塚家具で、文机ライティングデスクを購入した。これは今日に至る私の静かな相棒である。そこにPCを置き、私は読書と執筆に励んだ(当時は大して書けなかったが)。今思えば、炬燵は仕事には不向きだが、勉強には有用だという事実である。長く坐っていると、足がしびれるので執筆には向かないが、適宜体勢を変えながら、ゴロゴロ本を読むことができるので、意外に読書が捗るのである。私はかつてマルキストだったが、実家の炬燵に当たりながら、『資本論』を読んだものである。闘争と革命の書物を、ぬくぬく炬燵に当たりながら読むな、と言われるかもしれないが、当時そういう読み方も許されていたのだ。

本来、私の生活様式ライフスタイルに炬燵を置く余地はなかった。私にとって食卓は団欒の、文机は戦闘の、炬燵は怠惰の象徴である。親元を離れて、個人として生活を始めて以来、私は炬燵のある生活を否定し去ってきた。私が再び居間に炬燵を置いたのは妥協の結果である。しかし、晩秋の寒さに震えるこの頃、秋の夜長に気楽に大量の読書をしたことを思うと、炬燵も悪くないか、とにわかに思うようになった。私を日和見主義者、修正主義者と嗤ってくれてもいい。

TankaWriter

最近、短歌を詠んで(読んで)いない。

文章を書く量、アウトプットの総量は増大しているし、毎日、文語訳『聖書』を読んで、以前に比べて、古語に慣れているのに、それでも書けない(書かない)。

してみると、短歌が私にとって本当にふさわしい文芸なのか、考え直してみたい。人はいかにして歌人になるのだろうか?

オーソドックス歌人

小学生、中学生などの幼年期から親しんでいた、というタイプである。自分で短歌を選択したというよりは、すでに家庭に御歌が充溢しており、自然に短歌という文芸に親しんできた人である。そのほとんどが文化資本、経済資本の高い家庭で育っている。彼等は歌をハビトゥスとして実践している。生活(人生)に歌が存在するのは当たり前なので、歌を手放す、断念するという選択肢は考えられない。幼児洗礼を享けた、カトリック(オーソドックス)のごとき人である。

プロテスタント歌人

物心ついた頃に短歌を始めた人である。あえて自分で短歌という文芸を選択した人である。大学生、社会人に多い。もちろん、短歌という古くて新しい文芸に挑戦するくらいなのだから、もともとその人が育った家庭も、文化、文芸に満ち溢れているのだが、御歌が自然に遍在する訳ではない。むしろ、小説、論文など、散文が多い印象である。このような家庭に育った人は、短歌を始めるのは自明ではない。しかし、知的好奇心が旺盛な人が多いので、おのずと短歌を引き寄せるのである。私が歌を選び、歌が私を選んだ。再洗礼を享けた、プロテスタントのごとき人である。

私は確実に後者である。私の両親は短歌を読まなかったが、小説を読んでいたので、歌はなくとも物語は存在したのである。思えば、短歌結社での私のきまりの悪さは仕方ないことだった。私は詩歌の人、歌人ポエットではなく、文章の人、文人ライターだったのである。けれども、ときどき歌人タンカライターになるのもいいだろう。

今後、小説、評論などの散文を本業にして、短歌などの韻文はあくまで余技として、文士ライターの私は世界と切り結んでいきたい。

言葉の抽斗

中村真一郎は作家になりたいと公言したとき、彼の叔父は次のように助言した。「君が作家になりたければ、机の抽斗ひきだしいっぱいに原稿を書き溜めなければならない」

また、ある先輩作家は次のように話した。「君が作家デビューを果たす頃には、ミカン箱一個分の原稿の束がなければ駄目だぜ。そうじゃないと大量の注文に追いつかないからな」

ブログを毎日更新していると、それなりに或る工夫が必要になってくる。要するに若き作家と同じように、原稿を書き溜めなければならなくなる。律儀に毎日、日記のように書いていると、忙しい生活に追いつかなくなる。文筆外の人生の不測の事態に対応できないのである。災害のために食糧を備蓄しておく、というよりは、経済におけるキャッシュフローのようなイメージである。つまり、初めからある程度の余裕がなければならないのである。

私のブログはぜんぜん稼げないし(読者諸氏はすでにお察しのように、私はこのメディアで稼ぐことをすでに放棄している)、毎日更新を続けたとしても、いきおい文名が上がる訳でもない。

しかし、広告塔として、あるいは文章修業の場としては、はなはだ有用であり、私の筆力が向上するにつれて、読者が増えていることを、大変嬉しい心持で眺めている。これで収入が伴えば……と、忸怩たる思いはあるが、ブログは同人誌ないし個人誌のようなものだと覚悟しているので、この辺の事情は今はあまり気にしないようにしている。生産高が増えれば、おのずと解消される問題である。初めにことばありき。金は後に付いて来るべし。

2017年の冬、知己にしていた編集者は私に言った。「作家になりたければ、ブログを書け」そして、出版を離れて、介護に転身する私に次のようなはなむけの言葉を贈った。「それが、君のやりたい本当のことなんですか?」彼の助言はことごとく当たっていた訳だ。