舞いあがれ!貴司

転職活動が正念場である。来週にかけて面接の予定をかなりガチガチに組んだから、忙しくなりそうである。絶対に記者/編集者の仕事をものにして見せる。4年間の苦労と忍耐がここで昇華されるのだ。

今日は池袋のチャペルで礼拝のあと、新橋にて歌会に参加する。短歌の弾数が足りなくなってきたので、量産しなければならない。量×質=文名。これが歌壇で活躍するためのポイントである。

そういえば、職場のテレビで朝ドラの『舞いあがれ!』を見ていたら(私の家にはテレビはないのだ)、歌人の貴司が苦吟をしている様子を見て、微笑ましく思った。しかし、編集者が売れる歌集を目指して、貴司に相聞歌を提案したことに吹き出してしまった。なぜならば、恋の歌を互いに相詠み聞かす相手がいて、初めて相聞歌は成立するからだ。つまり、恋人もまた歌人でなければならない。相聞歌は自我エゴのみで作られはしない。その前提に表現者からなる社会が存在する。マ、うんちくはともかく、今後の展開に期待ですな。私はどちらかというと、相聞歌よりも、自我エゴ剥き出しの恋歌の方が好きである。

「炭酸の泡がしゅわしゅわしている」と処女おとめのごとく君は告げたり

『舞いあがれ!』貴司 ©NHK

転職はたのしい

昨日、仕事上がりに後輩と日高屋に行った。ビールを傾けながら、諸々の人生の悩みを話していたら、孤独が癒されたような気がする。「兼子さんは書き続けている間は闇に落ちることはありません」と言ってくれる後輩には感謝しかない。よく分かっているじゃないか。ありがとう。

出版/WEB問わず、編集の求人に応募し続けている。企業の反応はさまざまだ。私の過去のDTPの経験を評価してくれる人もいれば、現在のライターの活動に興味を持ってくれる人もいる。派遣社員の頃に経験した進行管理ももちろん活きているだろう。しかし、なかでも介護福祉士の資格に瞠目してくれると嬉しい。介護をしながら、ライティングもDTPもこなす類稀たぐいまれなる人材。そう見られていると自惚うぬぼれたくなる。もちろん、お祈りメールが届いた時は、先方の要求と合っていなかったんだ、と観念する丈である。

しかし、転職活動は今が一番たのしい。新卒の頃は自分のスキルが足りないことはもちろん(大学院卒はそれなりに覚悟が必要である)、リーマンショックと東日本大震災で相当な苦戦を強いられた。戦いにならなかったと言った方が正しいかもしれない。まあ、今から思えば、ボンヤリ生きていた若者だったからしょうがない。

過去の転職活動は、顔色青ざめていたことを記憶しているが、今回はそんなことはない。相当強気である。抗精神病薬の薬効ちからで神経細胞間にドーパミンが満ち満ちているのかもしれないが、それだけが理由ではない。

自信があるんだと思う。先方にアピールできるポイントが分かっている。だから、挑戦した結果、お祈りメールが来ても、たんに「合わなかったんだな」と納得することができる。逆に良い反応を示してくれる企業、俗っぽく言えば、私に食いついてくれる企業は、「私のこの経験、技術、資格が気になるんだろうな」と想像することができる。『Gレコ』のアイーダさんは「想像しなさい!」と事あるごとに言っていたが、それは転職活動にも当てはまるらしい。

アイーダ・スルガン ©SUNRISE ©Bandai Namco Filmworks Inc.

作品と人生

われらはひかりをのぞめどくらきをみ
光輝かがやきをのぞめどやみをゆく

『イザヤ書』

ゾシマ長老がアリョーシャに掛けた言葉を思い出す。「お前にはキリストが付いている。キリストを守りなさい。そうすればお前も守られるのだから」

就活にかまけて、創作していない悲しむべき状況にある。せめて一日1時間は机の前にじっくり腰を降ろして、執筆に励みたい。履歴書や職務経歴書はじゃんじゃん書いているが、それはまた別の話だ。

短歌の生産高が圧倒的に少ない。今の気持を詠めば相当な作品ができると思う。私には今こそ短歌が必要なのだ。歌を詠むことで救われる人生もあるはずだ。

戦闘服

4年ぶりにスーツを着た。リュックを背負い、クロスバイクに乗ると、自動車の窓ガラスに映った自分の姿は予想以上に堂々としていた。「万年筆は男の武器」と池波正太郎は言ったが、スーツは男の戦闘服である。この意味を4年越しにようやく理解することができた。現場労働者として、ダサいポロシャツを着せられた年月は、私にとって去勢されていたも同然だった。

今朝、転職のエージェントとWEB面談した。自分に対する協力者を一人でも多く作る努力をしよう。仕事と趣味を通じて、ファンを作る。ファンを大切にする。これは芸術家の務めである。

Arbeit macht unfrei

表題は「労働は汝を不自由にする」。昨日は早番だった。この頃は、介護することそのものが苦痛になり始めている。省みれば、もともと苦痛だったのだが、環境に適応するために、己の正直な感情を無理に押し殺してきたのだ。それが最近、余裕が出てきたことに加えて、かつて経験してきた嬉しい、楽しい思い出を反芻し始めたから、私の生活ないし人生から苦痛を除去しようとしているのだろう。

"Arbeit macht frei".アウシュビッツ強制収容所の門前に掲げられた言葉である。仕事は、労働は、私を自由にして呉れただろうか。解放して呉れただろうか。否、時間と労働を引き換えに私が手にしたのは幾許いくばくの賃金と、自身の内に鋭く感受される孤独と寂寥である。働けば働くほど、私は自身の肉体の牢獄に閉じ込められた。本当の病気と貧困はそこから始まる。社会人として、私は長らくこの痼疾に苦しめられた。

私を真に解放してくれたのは、学問、芸術、宗教だった。その経験の根底には楽しさがある。人々を解放に導く真理と歓喜がある。キリストに付き従うためにペテロは漁網すなどりあみを捨てた。私の人生の鍵は三位一体の中にある。

時期尚早

今日、紳士服の青山に行って、ベルトとYシャツを買ってきた。12日には証明写真も控えている。履歴書と職務経歴書を急いでアップデートしているが、まだまだ練り直し、書き直しが必要だ。この4年間に私がしてきた仕事はお世辞にも裁量が多いとは言えないが、自分なりに工夫してきたこと、他人に譲れないことは沢山あったはずだ。その経験を掘り下げること。自然主義小説のように細かく書き込むのだ。

WEBライター/エディターの求人に何件か応募している。先方との面接はもとより、転職のエージェントとの面談もまだ実施していないが、4月に無職になりたくないので焦り始めている。不安に駆られて、就労支援などの福祉業界の求人も見始めているが(Indeedが直接掲載しているのは、この種の低賃金の仕事だということも分かる)、ふと我に返ると、己のしていることに嫌悪感を抱く。

福祉に頼るのは4月に入っても、就職先が決まらなかった場合でいい。それまで出版、WEBなどの情報産業を強気に攻めていく。多少癖が強いが、個人ブログはあるし、ルポルタージュも執筆したし、企業に見せる手土産はいろいろあるのだ。まだ、不出来でも、習作に過ぎなくても、そこは自信を持っていい。昨年の不慣れな、不自由な環境で、よく頑張ったと思う。今年はその反動で、公私ともにばんばん書く。

現在と未来

会社はなかなか私を辞めさせようとしないが(そんなに良い人材なのか)、退職の面談をしていると、他人はいろいろ不安を煽ってくるけれど、未来さきの不安なんて、現在いまの苦痛に比べたら、人間の思惟が作り出す空想に過ぎないのだから、あまり気に留めないこと。恐怖による想像は希望による想像に比べて、非現実的なものに過ぎない。

就職活動について、悲観的になる必要はないが、気を引き締めること。まずは酒の量を減らす。禁欲はしなくてもいいが、節制はおこなう。目標に向けて戦闘準備をする。

正直、出版を含めた情報産業への転職は厳しいと思う。実績が乏しく、4年間のブランクがネックになっている。先方はかなり厳しい目で私を見るはずだ。仮に出版への転職が叶わなくても、福祉があるから(生活保護の意味ではない)、そこは安心していい。むしろ、資格を取りながら安心して働けるメリットがある。ただし、才能と収入が少ないのは覚悟すること。マ、週末休み、夜勤なしの仕事に転職したいだけなんですけどね。あとは私一人で勝手に書いて行きます。これは高望みなのでしょうか? 私はあまりにも劣悪な労働条件に慣れてしまったのかもしれない。人前では年収を上げたいとか、いろいろ格好いい言葉を言うけれど、結局はこの一言に尽きるのだ。もう介護辞めたい。