BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

閉ざされた21世紀

小岩のバーで飲んでいた時のことである。一人の客が会計を済ませて席を立った。酒に酔っているにもかかわらず、彼は無表情で、口は真一文字に結ばれていた。当時はマスクを着用することが一般的ではなかったのだ。

バーテンダーが言った。「また来てくださいね、今度はもっとお話しましょう」しかし、彼は黙ったままである。隣の客が説明した。彼は新型コロナウイルスに感染するのが怖くて、挨拶をする人を選ぶと言うのである。

「なんだ、挨拶もできないのか」バーテンダーぶっきらぼうに言った。「サヨナラ」

政府が緊急事態宣言を出す前の出来事である。事態はあの頃よりも確実に悪化している。

新型コロナウイルスは私たちの肉体の健康を脅かしただけではない。いまは決定的な治療薬がないが、人類は将来、それを開発するだろう。抗体も獲得するだろう。21世紀の最大、最悪の疫病と認められるに違いないが、それでも、人類史における疫病との闘いの一コマに過ぎないのではないか。未曽有の出来事ではない。

私が怖れているのは別の所にある。

新型コロナウイルスは私たちの精神の健康も蝕みつつあるのではないか。人々は感染を怖れて、マスクで顔を隠し、他人と距離を取り、気軽に話さなくなった。食料品、日用品を買いだめして、自宅に引きこもりはじめた。人々は自身の肉体の健康を気遣うあまりに、精神の健康を犠牲にしている。誤解を畏れず言ってしまえば、自閉的になってしまったのだ。——肉体の健康は必ずしも精神の健康を保障してくれない。新型コロナウイルスが終息する前に、東京オリンピックがはじまる前に、私たちはこの基本的な事実を知るべきなのだ。

20世紀は「戦争と革命の世紀」と言われた。私たちは二度の世界大戦と、ファシズムコミュニズムという全体主義を通じて、個人、民族、国家の限界を越えようとした。慢性的な経済恐慌と政治不安は資本主義と自由主義は終焉を迎えつつある、という認識を用意した。全体主義は一つの民族、国家を超えるのではなく(超国家主義!)、実際は、際限なく膨張して、他の個人、民族を、抑圧、迫害、殲滅することに終始したが、それでも全体主義は、人間が個人の範疇に留まり続ければ、やがて、衰弱、衰退、腐敗を招くことを認識していたのである。

「人間は皆、自分の肉体の牢獄に閉じ込められている」サマセット・モームは小説『アシェンデン』の中でそんなことを書いていたように思うが、文学、音楽、絵画、舞踏……すべての芸術はこの前提から出発しているのではないか。すると、「すべての芸術は絶望から始まる」と言いたくなるが、過度の一般化、抽象化は慎むべきだろう。人さまざまなのだ。

しかし、いま世界で進行しているのは、この絶望的な過程なのではないか。個人も、国家も、病気に感染することを怖れて、自分以外、自国以外の人々との交流を閉ざしてしまった。他者との「接触」は不謹慎、不適切、さらに言ってしまえば、犯罪的な行為と見なされ、その機会を提供する場は軒並み「自粛」させられてしまった。そして、行政の指導、命令に従わない個人と組織は「自己批判」させられるのだ。「反省」と「謝罪」を求められる。これでは全体主義ではないか。

20世紀で世界を変貌させた技術は原子力とコンピューターだ。どちらも第二次世界大戦中に作られ、使われた。これらの技術は戦争と無関係ではない。コンピューターは当初、軍、大学、企業などが巨大なメインフレームを独占していたが、マイクロプロセッサの開発は徐々に小型化、低廉化をうながし、個人でも所有できるようになった。パーソナル・コンピューターの誕生である。MicrosoftAppleはこの新しさを完全に理解し、事業ビジネスを展開した。革命の担い手として自覚していたのだ。初めてプログラミングする時、画面に表示する"Hello World"という文字列は、個人の仕事が世界に通じてあれ、というハッカーの理想の表現である。インターネットの普及はその傾向を加速した。ベルリンの壁は崩壊し、そのレンガのひとつはMicrosoftミュージアムに保管してある。ビル・ゲイツが勝ったのだ(買ったのだ)。それは資本主義と自由主義の勝利であった。20世紀は個人主義の時代である。しかし同時に自身を世界に開こうと努力した時代である。けれども、21世紀のいま、個人と国家は世界に対して、心も体も閉じようとしている。世界の片隅で、私はこの傾向を悲しんでいる。