棄民社会

実家に帰省して以来、気持が沈んでいる。

今朝、教会の聖餐式に参列しようとしたが、寒気と宿酔のために見送ることにした。否、本当のところは、新型コロナの感染を心配して遠慮したのだと思う。全国のこの感染状況だと、当分、教会に礼拝できない日々が続くだろう。下宿で一人、十字を切って、聖書を読むほかない。内村鑑三が聖書を最後の頼み、最後の拠りどころにした理由が、なんとなく分かり始めた。

「日本人は政治と宗教と野球の話をしてはいけない」と言われるが、私は本気になると、政治と宗教の話をする。もちろん、誰彼かまわず、というのではなく、相手を見てのことだが1。私はむしろ、政治と宗教を正面切って話すことができない所に、日本人の懦弱を見る。野球については関心がないので、沈黙することにしている。

現代において宗教というと、家族や国家の紐帯を強化する、保守的な現象と思われるかもしれないが、私の原風景は違う。

宗教はむしろ、家族と国家に棄てられた人々のものだ。そのような人々がぞれぞれ良心を持ち、教会という新しい社会を建てるのである。その意味において、宗教は急進的ラヂカルである。

政治において、国家をポジとすれば、宗教はネガである。国家権力の政治を、宗教はネガディブに眺める。

私は大学生の頃、政治学市民社会の立場から研究した。市民社会NGONPO、企業などの自発的結社のことで、善良で、健康で、快活な市民によって構成されている。私はこの点が大いに不満だった。彼らに対する怨恨ルサンチマンは日ごとに強くなっていったのである。一方、キリスト教徒の教会は棄民社会である。私達は罪深く、病んでいて、憂鬱である。私達は仲間である。私達は共にいる。この立場を堅持したい。


  1. 以前の職場で、インドネシア人のムスリムの上司と、人間の不完全性と最高善としての神について話し合ったことは、楽しい思い出である。