福祉政治学

タツ

鴻巣の実家に帰省している。

実家にはコタツがある。読書をしようと試みるが、慣れない正坐で、あるいはお姉さん坐りで、たちまち脚が痛くなる(体重が増えたことも一因だろう)。仕方なく寝そべって作業をするが、体幹から爪先まで快適な温度なので、すぐに眠くなる。半醒半睡を繰り返している。寝るのか起きるのかケジメがつかない。弛緩した、緊張感のない生活である。下宿先のアパートで、寒さにうち震えながら、ピアノ椅子1に坐り、書物机に向かって、(ときどき酒と煙草で身体に喝を入れながら)読書と執筆にふける私は、なんて禁欲的なんだろう、と思う。今、実家の2階の妹の部屋の勉強机に向かって、この記事を書いている。やはり、私には机と椅子が必要らしい。

試験勉強

けだし、この連休中に実家に帰ってきたのは理由がある。そう、今月30日に控えている、介護福祉士の試験勉強である。

テキストと問題集は主にコンピューターの技術書の出版している翔泳社のものを入手した。同社に福祉書籍の部門ができたことを知っていたので、前々から注目していたのだ。noteに特設ブログ 翔泳社の福祉の本開設しているので、興味のある方は参照されたし。私もnoteやろうかなー(それでも、はてながメインだけどね)。

生まれつき根が怠惰にできているのか、私は試験勉強というものが嫌いだ。運転免許の学科試験もTOEICも、それなりに苦しんだ。さっきまで勉強、勉強、と書いているが、私はガリ勉ではない。ぼんやりと考えごとをしているのが好きである(そのせいで、この前、自転車を漕いでいたら、徐行ポールに激突して、あやうく大怪我をするところだった)。目的のない読書。これが好きである。書店や図書館で、ざっと棚を見渡して、興味のある本を片っぱしから手に取る。読書は散歩に似ている。だから、目的を定める、論文を執筆するための読書は、通勤、通学と似ていると言えようか2。しかし、通勤、通学のあいだでも、散歩をする余地はあるのだ。

障害者福祉

介護福祉士完全合格テキスト』を読んでいると、興味をそそられる科目があった。障害者福祉、特に精神障害者のそれである。

まず、他人事ではない、というのがある。私は昨年11月に葛飾区役所に、精神障害者保健福祉手帳の交付を申請した。無事に審査が通れば、今年の2月に発行される予定だが、そうなると、晴れてようやく、精神障害者として認められたことになる。これは冗談ではなく、行政と社会に公式に認定にされたことを意味する。障害を克服するための具体的な取り組みが可能になるのである。ちなみに私は双極性障害躁鬱病)の持ち主である。最近は比較的寛解しているので、「君は大丈夫だよ。まともだよー」と言われたり、励まされたりもする。確かに、或る意味でまともだが、別の意味ではまともではないのである。思考と行動が極端に制限される時がある。——それなりにハンディキャップを負っているのだ。

政治と福祉

私の専攻はもともと政治学(政治哲学)なのだが、今後、政治学の考察の対象として、福祉を含めることも視野に入ってきた。思えば、大学の頃の恩師の一人は、北欧の福祉政治を専門にしていた。

しかし、政治と福祉は似て非なるものだ。

政治には闘争がつきものだが、福祉はとかく闘争を避ける傾向がある。政治は自主独立、すなわち自立を尊び、福祉も同じく自立を尊ぶ。しかし、政治は自立のためならば犠牲を厭わないが、福祉は誰も犠牲者を出さないことが原則である。管見では、政治は幸福よりも自由を優先するが、福祉は自由よりも幸福を優先する。政治と福祉の間には間違いなく緊張がある。けれども、矛盾、葛藤ジレンマがある方が、二つの世界、表と裏、光と影を同時に見れるので、興味は尽きない。キリスト教における、地の国と神の国の対立と融和に似ている。

はたして、福祉政治学は可能なのだろうか?


  1. 英語では「ベンチ」と呼ぶ。

  2. カーナビに目的地を入力して、それに従い走行するのを想起してくれればいい。