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TAKASHI KANEKO

コロナ鬱

コロナ禍における鬱病、いわゆる、コロナ鬱について思う。

このブログは今まで明確に新型コロナウイルスの概念を使うことを避けてきたが、今回の事象はそれが原因であることは明らかなので、隠語等で包み隠さずに書きたい。

私は特別養護老人ホームで非常勤の介護福祉士として生計を立てているのだが、現在、私が所属しているフロアに入居している利用者1の約8割が新型コロナウイルスに感染している。私たち職員は防護服を着て業務に当たっているが、それでも職員に感染し、休職を余儀なくされ、私たちは少ない人員で現場を回していかなければならない、苦しい状況に立たされている。

コロナ禍の現場で一番怖ろしいのは、やはり自分自身が感染することで、介護の三大業務は《食事・排泄・入浴》なのだが、このうち排泄介助が最も利用者の感染症に職員が罹患する可能性が高い。新型コロナウイルスに感染した患者、特に高齢者は、消化器官を含めた内臓の機能が落ちるので、下痢が多くなる。多量の泥状便、水様便の処理に当たる時が最も「感染うつるな」と思う瞬間である。

また、利用者をトイレに誘導する時も罹患する可能性が高い。介護では、利用者が手すりに掴まって立っている最中にオムツを穿かせる《立ちオムツ》という技法があるのだが、どうしても介助者は利用者に身体を密着させる必要がある(高齢者は立位が不安定なのだ)。その最中にゴホゴホ咳をされると、フェイスシールドをしていても「これは終わったな」と思う。

私はまだ幸いにして感染していないが、それでもこのような状況下で来る日も来る日も介護をしていると、気が滅入ってくる。しかも、感染した利用者は安静にしたり、二次感染を防ぐために、部屋に隔離したり、ベッドに臥床するのだが(当然屋外には出られない)、それを続けていると、彼等は狂ってくる。持病の認知症が悪化するのだ。私たち職員もまた狂ってくる。ミッシェル・フーコーは近代の病院、養老院(老人ホーム)などは、監獄の理性化された諸形態のひとつであると看破したが、そこで私たちは労働することを引き換えに、みずからの理性を奪われているのだ。

もともと私は躁鬱病の持病があり、普段、抗精神病薬を服用することによって、軽躁まで持ち上げているが、今、コロナ禍の現場で介護労働に従事していたら、さすがに鬱に落ち込んできたような気がする。鬱病は感染症の流行にともなう二次的な精神症状のひとつだ。私は薬を飲むことで対処しているが、これを看過ないし軽視してはならない。

二日間の公休を経て、明日、私は現場に戻る。クラスター発生直後に罹患した職員は次々現場に復帰してくる。まるで戦争の光景である。感染のリスクに曝されている私たちは社会から隔離され、孤立した状況で働いている。若者は青春と自由を奪われ、老人は衰弱していく……。この戦争が終わったら、私は介護福祉士を引退する。


  1. 福祉業界では顧客を「利用者」と呼ぶ。