新潟の人

夜勤明け、無性に酒が飲みたくなる。

単純に喉が渇いているのかもしれない。しかし、もっと深い所では、過酷な労働で蓄積された澱のようなもの——肉体的には乳酸であり、精神的には罪の意識——を酒で洗い流したいのかもしれない。やはり、酒には浄化作用が、汚れたの気分を、楽しいハレの気分に持ち上げてくれる力があるらしい。たとえ、それがますます意識の混濁を、生活の混乱を招くとしても。

16時に私は目を覚ますと、シャワーを浴びて、簡単に髭を剃り、髪を梳かした。服装はTシャツにジーンズ。3時間くらいしか寝ていないけれど、それよりも深く、長く眠ったような気がする。革靴を履き、京成小岩駅に向かう。上野行きの電車に乗る。

隣の京成高砂駅で降りる。喫茶 白十字ブレンドコーヒーとレア・チーズケーキを頼む。「読売新聞」「日本経済新聞」など、各種新聞雑誌を取り揃えているので、情報収集をする。私より後に入ってきた50がらみの男性が煙草に火をつけたら、マスターにとがめられていた。2020年4月1日以後、健康増進法の改正により、飲食店では原則禁煙になってしまったのだ。その男はナポリタンを食うと、金を払い、憤然として出ていった。

私も勘定を済ませて外に出ると、小雨が降っていた。もともと多少の雨を気にしない、傘を差すのが億劫なたちなので、濡れるにまかせて、線路沿いを歩きはじめた。空を見上げると、雲間から光が差していた。黄昏が寝不足で疲れた私の神経をいっそう鋭くさせていた。路地には私の他に誰もいない。逢魔ヶ時おうまがどきだ。酒を飲みたい。居酒屋 高砂屋に入る。

カウンター席に着く。剣菱けんびしを冷やで注文する。それと、すいとんを頼む。先客に中年男が一人いた。飲食業で働いているらしい。奥には店主と思われる、割烹着を着た、お婆ちゃんが座っていた。いろいろとおすすめのメニューを教えてくれるが、私は枝豆は好きではないので、軽く受け流す。カウンターの中には年代物のテレビが置かれてあって、新型コロナの新鮮味のないニュースを流していた。盃が空になると、店の女の子がお酌をしてくれた。もとより、酒飲みは手酌主義と心得ているので、この心づかいは嬉しい。

一合飲み終わる頃に、一人の女性が高砂屋暖簾のれんをくぐった。歳は30くらいだろうか。ハンドバッグを肩に掛け、水色のワンピースを着ていた。ラフな格好だが、それでも仕事帰りを感じさせた。髪はミディアムで、耳元で巻いていた。二重瞼で目が大きく見える。それなりに化粧をしているが、袖、スカートから伸びる長い肢体と違和感がない。白皙の美人である。

彼女はハイボールと何かつまみを注文すると、私の左に座った。なんとなく気まずい感じで飲んでいると、彼女の方から声をかけた。

「私、前からこの店が気になっていたんです。今日、勇気を出して、えいって入ってみて。いつも日本酒を飲まれるんですか」

「いや、普段はもっぱら洋酒です。ウイスキーを飲むことが多いですね。日本酒、あるいは焼酎を飲むのは、こうして外で飲む時だけです。飲むのがお好きなんですか」

「ええ、家では日本酒をソーダで割って、レモンを搾って飲んでいるんです。邪道かもしれないけど、おいしいですよ」

「ご出身はどこです?」

新潟県の長岡です」

「道理で酒が強い訳だ。新潟の人は酒好きが多いからね。私、新潟の友達が多いんです。村上、直江津、柏崎にそれぞれ一人ずつ」私は半分本当、半分嘘をついた。「新潟市は港町で世界に開かれています。開放的です。ここ(葛飾区)よりもはるかに都会で、垢ぬけていますよ。歩いていて楽しかった」

「あなたのご出身はどこ?」

「埼玉県の鴻巣という所です。田舎です。でも、父が会津、母が福島出身だから、心は関東よりも東北にあるんです」

「私、福島の人とお酒を飲んで、勝ったことがないわ。福島の人って、馬刺しを食べながら、ひたすら日本酒を飲んでいる印象がある」

「山間部は食材に乏しいですからね。どうしても、乾物や、塩辛い料理が多くなる。話は飛びますが、私は5年前に一人暮らしをしていた所沢から小岩に来ました。所沢は中産階級ベッドタウンのような、清潔で上品だけど、勇気が足りない街でした。小岩に来たら、当初の目的は達成されたような気がします。猥雑ですが、たくましい。私は根は田舎者ですが、努力して都会人になりました。酒の飲み方もその過程で覚えました」

「私もそうよ。でも、東京にも馴染みきれなくてね。今回の新型コロナの騒動があった時、内心、ざまあみろって思った。私は東京を愛していると同時に憎んでいるのよ」

「私もです。さ、次は何を飲みましょうか?」

芋焼酎ソーダ割にして、レモンを搾るとおいしいのよ。芋の臭みが緩和されて、爽やかな風味になるの。そう、搾ったレモンはそのままグラスの中に沈めるの。あなたのすいとん、私にも分けてくださらない?」