「雨が降ってきましたね」
訪問先の仕事を終えて事務所に戻ってきた、中年の女性介護士がガラス張りの玄関を開けて言った。
私は雇用契約書にサインをしながら、彼女の声を聞いていた。その日の正午、私は月末に就業を始める訪問介護事業所で、入社の手続きを進めていた。社内のコンピューター・システムにアカウントを開設し、ログインを済ませたあと、私は制服を試着した。紺の合繊に会社のロゴが印刷された、半袖のポロシャツである1。試着すると、肩回りが窮屈だったので、3Lサイズを注文してもらった。
その後、社員証の写真を撮影した。普段、私は自分が写る写真にコンプレックスを抱いているのだけれども、この日の写真は自然体にしてよく撮れていた。表情が明るかったのである。
一連の事務手続きを済ませたあと、コートを着、靴を履いて、事業所から出る時も、依然、雨は降り続いていた。外套から上着まで浸み込むほどの雨脚である。傘を持っていくように勧められたが、「折りたたみ傘を持っています」と嘘をついて、その場を後にした。
午後1時。私は朝食を抜いていたので、ひどく空腹を覚えていた。それに、雨宿りをしたかったので、小岩の釜めし屋 錦に入った。ロースカツ定食を注文した。店内は暖房が隈なく行き届いている。冬の冷雨に打たれたので、この温もりは有り難かった。
定食ができるまで、私は藤原保信の『政治哲学の復権』を読んだ。戦後のアメリカの政治学(politics)は、客観性、実証性を重んじて、政治科学(political science)を志向したが、それにより、かつて倫理学と深い繋がりを持っていた政治学が規範性を喪失した。また、客観的な政治科学も、アクターとしての人間の動機、目的から自由ではないために、価値中立ではありえない。現代の功利主義的な政治観に対する絶望と不信など、彼と多くの問題を共有することを確認した。私は藤原保信を、政治学史、政治思想史において、南原繁に次ぐ政治学者と見る。
ロースカツ定食が届く。トンカツにレモンを搾ったあと、惜しみなくソースをかけて、ご飯と一緒に味わう。肉は柔らかく、衣も歯ごたえがいい。味噌汁も青葉が入っていて、さっぱりとした味わいがある。
昼食を終えると、私は近くの女給にキリン・ラガービールの中瓶を注文した。まだ、店を出たくなかったからである。『政治哲学の復権』を読みながら、ビールをイッパイやっていると、女性二人組の客が入ってきた。——今日、私が入社した訪問介護事業所の所長とその事務員である。
「ああ、見つかっちゃいましたね!」本の頁から顔を上げると、私はバツが悪そうに言った。
「休日だからいいんですよ」所長は大らかに穏やかな調子で答えた。「やっぱり、地元の行きつけの店なんですね」
所長は五十代の女性である。この瞬間、私は年の功を強く意識した。人は大人になると、昼間から酒を飲むことがある。たとえば今日のような、雨にしたたか打たれた午後に。
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介護業界ないし介護職の制服はポロシャツが多い。私はこの風習に対して
矛盾した 感情を抱いている。↩