自由の代償

齋藤純一『政治と複数性』を読了した。

最近、私の政治学に対する情熱が再燃している。休日に図書館の書架を眺めては、気まぐれに手にした本を借り出し、その本の参考文献をインターネットで調べているうちに、Amazonでポチってしまう。断捨離とは無縁の生活。書架にもはや収まらないので、書斎の、寝室の床にまだ読んでいない本がうず高く積まれている。そろそろ古本屋の利用の仕方を本格的に覚えなければならない。

私はどうして政治学を学ぶのか? 世界金融恐慌、東日本大震災新型コロナウイルス……過去から現在に至るまで、私たちは様々な災禍に見舞われてきたし、それは未来まで続くだろう。「世界史は不幸の歴史である1」。それは一見、天災のように見えるが、紛れもなく人災の様相を帯びている。現象を自然としてではなく、作為として見ること。科学はそこから始まる。それはまた、人間の知情意を、畢竟、悪に対する認識をいっそう深めるのだ。もう一度、問う。私はどうして政治学を学ぶのか? 私たちは物心ついた時から、いや、世界に生まれた時から政治に曝されてきた。このまま好きなようにはさせない。唯々諾々として従わない。そんな思いがある。「この国の人々は本当に政治された2」。

実存主義

ハンナ・アレントの功績は、政治思想に人間の実存の問題を持ち込んだことだと言われる。すなわち、個人の感覚、経験、思考を重視する立場である。これは一方では正しく、一方では間違っている。たぶん、アレント本人に訊けば、苦笑されるだろう。

実存の問題を政治思想に持ち込んだのは、アレントが最初ではない。それはヘーゲルマルクスにおいて、政治思想(社会思想)として構想され、レーニンによって先鋭化した。また、ニーチェベルクソンハイデガーにおいては、既存の体系を脱構築ディコンストラクションする哲学として構想された。人間の主観、内面をもとに哲学すること、所謂、「生の哲学」は彼らの発明品ではない。その萌芽はすでに近代のロマン主義に表れていた。ゆえに詩人が最大の実存主義者たりえるのである。たとえば、リルケの小説の一節。

彼はあわてていろいろなものを脱ぎ捨てたり忘れたりするのに忙しかった。上手に何もかも忘れることが必要なのだ。[…]家の中へ入るともっといけなかった。特有な家の匂いが、もうほとんど万事を決定してしまうのだ。些細なつまらぬことが少しぐらい変わろうと、全体から見れば、彼は結局人々が考えていたままのこの家の息子に違いなかった。家の人々はつまらぬ彼の過去と自分らの勝手な希望を結びつけ、すでに彼の生涯の略図をこしらえてしまっているのだ。彼は一家のものの共有物のようであった。夜も昼も、人々の愛の暗示に取囲まれ、人々の信頼と猜疑にはさまれ、もはや何をしても賞賛と非難の目から逃れることができなかった。

だから、どんなに注意深く階段を歩いても、それが何の役にも立たぬのだ。家族はみんな居間に集まっている。そして、ドアが開くと、一斉にこちらへ視線が集まるのだ。彼はわざと物陰に隠れて、何か声をかけられるのを待っていた。しかし、それからが全く大変なのだ。みんなが彼の手をとってテーブルまで連れてゆく。そこにいる限りの人々が、ランプの前に好奇な目を光らせて身をのりだす。人々はひどく有利な立場にいた。めいめいは暗いランプの灯影にいて、明りはただ彼にだけ集まるのだ。あらゆる羞恥が一人彼を包むのだ。彼はできたら、人間の顔をなくしてしまいたいと思った。

ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』

私は実存主義とは何たるかを、リルケとヘッセから学んだ。だから、大学で学生たち、教員たちが、やれ、アレントだの、フーコーだの、デリダだの、最新の「現代思想」を論じている(奉じている)様を冷ややかに見つめていた。

齋藤純一は虐げられ、蔑まれた個人ないし集団が、偏見などの悪しき表象を打ち破り、みずからの存在を現す(曝す)ことを政治的な行為と見なした。しかし、それはおそらく齋藤自身も自覚しているように、ユニークな思想ではない。当時、流行していた思想を、良心的な左翼の学者が綺麗に纏めた印象を受ける。しかし、他者をして自身に押し付けられた表象を破壊する行為は、綺麗事では済まされない。その行為はいかなる性質を持つのか。後述するように、その契機モメントは人々の会話にある。

自由主義

「私はあなたの思想、信条、趣味、財産を侵害しない。だから、私の思想、信条、趣味、財産を尊重してほしい」これは自由主義の原則であると同時に、個人主義の原則である。この政治思想は近代の宗教革命——思想信条を巡る血で血を洗う経験によって生まれた。その結果、政治権力は特定の宗派セクトを迫害してはならない、という寛容の原則が生まれた(例えばイングランド国教会は国内のカトリック教徒を迫害してはならない)。自由主義者は個人の思想、趣味、性的志向に踏み込まない。それゆえ、「権力からの自由」が彼/彼女の理想的な生き方である。この主義イズムは資本主義の経済活動を加速した。するとどうだろう。私たちは互いの生活に無関心になる。孤独な人生観が浮上してくる。「僕は自分に誠実になればなるほど、君から離れていく。孤独こそ我が故郷なりディ・エインザムケイト・イスト・マイネ・ハイマート3」。

近代における最大の政治思想である自由主義は、政治、経済、科学、芸術、技術を発展させることによって、個人に多様な生活様式を送ることを可能にさせた。しかし、その代償として、自由は私たちに孤独になることを要求した。孤独は近代人が担うべき重荷の一つである。話を実存主義に戻そう。私たちの道徳モラルは個人の感覚、経験に基づく。この点において、実存主義自由主義は一致している。しかし、それだけでは社会ソサイエティを作ることはできない。会話が、私たちの社交ソーシャルで交わされる何気ない会話が、孤独という自由の牢獄を破壊するために絶対に必要なのだ。


  1. フリードリッヒ・ヘーゲル『歴史哲学』

  2. 開高健『輝ける闇』

  3. 夏目漱石『行人』