BOOKMAN

TAKASHI KANEKO

エッセンシャルワーカー批判

新型コロナウイルスの流行を契機に、医療、介護など、福祉の現場に従事する人々を「エッセンシャルワーカー」と呼んで、尊敬しよう、応援しよう、という向きがあるらしい。昨今のコロナ禍では、先述の呼称以外に、「ソーシャルディスタンス」とか、「ロックダウン」とか、聴き慣れない外来語(?)が流行し、行政の政策担当者から、テレビのアナウンサー、雑誌のライターに至るまで、本当にその概念を理解しているのか、いや、そもそも真面目に理解する必要があるのか、と訝しみたくなる。例えば、普通、社会的距離ソーシャルディスタンスと訳されるが、むしろ、社交的距離ソーシャルディスタンスの方が適切ではないだろうか。この概念は人々の社交を制限するために作られたのだから。

約2年間、私は老人ホームで介護の仕事をしている。先の二度の緊急事態宣言下でも、営業禁止はおろか、時短営業もなく、所定の労働に従事して、給料と賞与を貰うという、今までと変わらぬ日常を続けていた(マスク、さらにはフェイスシールドの着用を義務付けられたが)。この期間は、よく働いた、あるいは(行政と市民社会に)働かされた、という印象がある。人間の再生産に関与している。その意味で、私は本質的労働者エッセンシャルワーカーなのだろう。

仕事柄、人間の死に目を何度も見てきた。しかし、人間の本質エッセンスに触れた感覚はまったくない。労働による疲労と、アルコールによる宿酔と、ストレスによる苦悩で、神経が磨り減らされているだけだ。主観的な体験を重ねるだけでは本質を掴むことはできない。それを普遍的な経験として語るためには、理性による反省が絶対に必要なのである。エッセンシャルワーカーを称揚することは、一方、学問、芸術など、直接生産に与しない事業を「非本質的」として貶めているのではないだろうか1。しかし、事物の本質を明らかにしてきたのは、いつも「不要不急」の学問、芸術なのである。

私はエッセンシャルワーカーになりたくない。


  1. それはファシズムやボルシェヴィズムの全体主義体制に似ていなくもない。