出版社で派遣社員をしていた頃のことである。書籍と雑誌の用紙を都合する部署で事務員をしていた。仕事柄、紙屋と印刷屋は常に取り引きがあった。紙の銘柄と本の部品の組み合わせにもよるが、仮に一万部の本を出版すると、何十万円、何百万円の用紙代が発生する商売である。当然、左記の会社の営業の攻勢は凄まじく、あまり声を大にして言えないが、陰に陽に接待が行われていた。それは私達のような末端の派遣社員も対象になることがあった。今思うと不思議な話だが、営業戦略として、あながち間違いではなかったのではないか。世間一般の事務員に比して、私達は書籍の制作に関して、意外に裁量を持っていたのかもしれない。本丸を攻めるためには、まずは外堀を埋めるものである。
昼食を食べたあとの気だるい午後、用紙代理店 山下の営業 佐次さんが近づいてきた。
「大兄、調子はどうですか?」
「
佐次さんは齢三十にして、妻帯、子持である。いつも仕立てのよいスーツを着ていて、物腰は上品、精悍そのものである。まさに働きざかりのサラリーマンを体現したような存在である。私達は仕事を通じて親しくなり、世代が同じことも相まって、互いに「大兄」と親しみを込めて呼ぶようになった。人は取引先という敵陣の中でも、己に手を差し伸べる仲間を見つけるものである。
「Kさん、今度うちの本社で、特殊紙の展示会をするんですけど、ご興味ありますか?」
私はこの職場で働いて六ヶ月足らずの新人である。判断しかねたので、隣のベテランの同僚の季子に振った。彼女も私と同じ派遣社員である。イラストレーターを目指していた。
「私は去年、山下の展示会に行ったことがあるんだよね。今年はどうしようかしら。理子はどうする?」
季子は右隣の同僚 由子に振った。年輩の季子に比べると、由子は少し頼りない。趣味は旅行である。「私はみんなに附いていくよ」
「三人で行ってらっしゃい」
鋭敏な聴覚(地獄耳とは言わない)を持つ、上司の美久さんが言った。「取引先への出張は、Kくんにとって初めての経験だもんね。佐次さんに特殊紙の特徴をいろいろと教えてもらうといいわ。私は日頃、山下に足を運んでいるから、今回は見送るわ。たまには三人で外の空気を吸ってらっしゃい」
用紙代理店 山下の本社は神田神保町にある。神保町は古書で有名な街だが、それに尽きず、学問芸術を尊ぶ気風がある。学者と作家はこの街で大切にされているのだ。街角に駆け出しの小説家、装幀家が居ても何ら不思議ではないのである。
佐次さんに案内されて、私たち三人は山下の膨大な特殊紙の在庫をひととおり見たあと、同社が主催する企画展の会場に移った。それは或る有名な装幀家の仕事が紹介されていて、デザインラフから色校、そして、製本に至るまでの一連の過程が展示されていた。一流の職人の仕事を前にして、私たち三人はただ感嘆するのみだった。私達のような中途半端な事務員が及ぶレベルではないのだ。私達は言葉少なに展示会場を後にした。
私たち三人は佐次さんに連れられて、会社の近くの比較的格式の高そうな中華料理屋に入った。
仕事の話は大して振るわなかったので、話題は自然、
佐次さんに見送られて、山下の本社をあとにすると、私たち三人は地下鉄の改札を通った。駅のホームで電車を待っていると、ふいに季子が言った。
「佐次さん、仕事も家庭も充実していたね。私達もうすぐ三十になるけれど、何を目指したらいいのだろう?」
「私は結婚かな」理子は少し照れ臭そうに言った。
「私も結婚したいな。でも、今のような半端仕事ではなくて、ちゃんとイラストレーターとして身を立てたいし……。Kくんは何を目標にして生きているの?」
「僕は文学だな」私がさも当たり前のように言うと、季子はすかさず付け加えて言った。
「あと、酒と女ね」
芸術家の眼にはすべてお見通しだった訳だ。
- 「ぼちぼちでんな」の意。↩