生と死

われらが微賎いやしかりしときに記念したまへる者にかんしやせよ
その憐憫あはれみはとこしへに絶ゆることなければなり

『詩篇』136篇23節

昨日、立教大学のチャペルで復活祭イースター礼拝が行われた。また、併せて洗礼式が執り行われた。

私の教名(洗礼名)は、キレネのシモン。アフリカ北部のユダヤ人で、ちょうど、過越の祭に礼拝に来ていた。ローマの兵卒に捕らわれて、イエスの十字架を無理矢理肩代わりさせられる。当時の十字架は60kg以上の重さである。イエスもさることながら、シモンも相当屈強な男である。

やはり、私はガテン系なのか。まあ、十字架を強いて担ぐことがポイントである。十字架は誰でも好き好んで、担ぐものではない。それは宿命として背負うものなんだ。

いずれにせよ、私は2023年4月9日をもって、キレネのシモン兼子崇志になった。


洗礼式のあと教父母を交えて、食席ないし酒席を共にした。

帰路、私の乗車している電車が京成小岩駅に着く直前で、何かに衝突し、緊急停車した。

私は先頭車両に乗っていたが、何かが砕けるような凄まじい音がした。

運転手が通信用のマイクに「あっという間に人が飛び込んできた」と話した。

生を選ぶ人がいれば、死を選ぶ人がいる。

私達の現存在はつねに瀬戸際に置かれていると思わざるをえなかった。